読書 エレン・ケイ 児童の世紀

児童の世紀 (冨山房百科文庫 24)

児童の世紀 (冨山房百科文庫 24)

昨日ボスから、試験の面接では偏った思想を持っていないかを心配している、見ているというお話があったのですが、エレンケイは完全に偏っていると思う。でも王道で道理だと思うところがたくさんある。


「子どもの性格のなかにいかに未来を志す力が潜んでいるか、まだ同様に、一人一人の子どもの過ちのなかにいかに善に対する不朽の芽生えが包まれているかを示している。」139項  ここはゲーテの言葉を引用しているところ


「どんな過ちでも徳行への萌芽を包む一つの固い殻にすぎないのである。
 静かにおもむろに、自然を自然のあるがままに任せ、自然本来の仕事を助けるために周囲の状態に気を配る。それが本当の教育というものだ。」140項


「優れた天才の特徴は、あらあらしく強い感情であり、それを制御する鉄のような支配力をもっていることである。」140項これはカーライルの言葉の引用


「『子どもと遊べる者だけが、子どもに何か教えられる』というスタール夫人の言葉には深い意味がある。自分が子どものようになることが、子どもを教育する第一の条件である。しかしこれは、子どもらしく装ったり、ご機嫌取りのおしゃべりをすることを意味するものではない。どちらも、子どもたちにたちまち見破られて嫌われる。これは、子ども自身が生活を捉えるのと全く同様な無邪気さで子どもを取扱い、子どもにも、大人に示すのと同様の思いやりと、細やかな感情と信頼を示せということである。また、これは、大人が子どもに、自分の欲するあるべき姿を要求し、それによって子どもに影響を与えるのではなく、大人自信の現在の印象によって子どもに影響を与えよということである。そしてまたこれは、子どもに接するのにずるさや暴力をもってせず、子どもの持前のまじめさと誠実さをもってよせということである。」142項


「ルソーはどこかで、『自然は、親を教育者につくらず、子どもを教育されるようにつくらなかったので、教育はすべて失敗した』と、言った。人びとがこの自然の指図に従いはじめ、かつ教育の最大の秘訣は教育をしないところに隠れていると理解しはじめたとしたら、どうなるか考えてもらいたい!」142項


「子どもを平穏のうちに置かないことが、いまの教育の子どもに対して犯した最大の罪悪である。心身両面の成長のために素晴らしい世界をつくってやるよりは、子どもが他人の権利の境界を越えない限り自由に行動できる世界をつくってやる、これこそ、将来の教育目標となるべきものである。」142項


「いたずらの一つ一つから、これとは対照的な『美徳』を引出すのは、善をもって悪を克服することである。しかし、直面する人生の試練に堪えないような弱い方便、すなわち故意にわざとらしい『美徳』をもって自然の力を克服しようとするのは、全く筋違いである。子どもの本能を根絶せず、これを高めるのが教育の最高目的でなければならない。そうすれば、別のより高い純粋さが、自然の純粋さに取って代わることになる。」144項


「何がやれるかと言うことよりも何をやってはいけないと言うほうがはるかに容易である。『悪』は――昔の文明の開けた時代からの隔世遺伝または異常発生でない限り――善と同様に自然であり、欠くべからざるものであり、これが独断的支配的性格をもつ場合のみ悪になるということを、人びとが理解して初めて、善をもって悪を克服することができる。」145項

「子どもの過ちをすぐ取り上げると誤りが多いから、慎重を期して十のうち九には目をつぶること、その代り子どもが育ちかつ教育される環境づくりに十分気を使うこと、これこそ自然に適った教育法である。だが、日常のこの目標を意識して環境をつくり、自分自身を教育するような教育者はまだ稀にしか見られない。大多数の人間は、かつて自分が受けた教育の資本と利潤で生活している。この教育で、子どもを規格型児童につくりあげ、その上の自己教育への意欲をことごとく奪ってしまう。
 自分の使える時間の範囲で最良のものと絶えず交流し、常に自己発展を維持する、これこそ、自分の子どもと次第に友だちになれる唯一の道である。
 子どもを教育するということは、子どもの精神を子ども自身の手のなかに握らせ、子どもの足で子ども自身の細心を進ませるようにすることである。」146項


「陰の配慮には、子どもに自分で経験を積ませ、その上で自分の結論を引出させるように仕向ける力がある。そこで、子どもは自分自身の体験と意見と行動原則をもつから、教育者がその行動を是正することによって、子どもに深い印象を与えることができるのである。現に自分の前に、全く新しい精神、すなわち独自の我をもち、出会う事柄については自分で考えるのを第一の権利とする精神があるということを知る――これが教育者の経験するあらゆる経験の窮極である。』147項

「画一化のための訓練が、厳しいにしろ穏やかであるにしろ、子ども時代を通じて見えない苦痛を子どもに与えることを、誰が想像するだろうか?」147項


「『習慣とは本能化した原則であり、肉と血に変わった原則である。』彼はさらに続けて言う。『習慣を変えることは生活の本質的問題である。というのは、生活はもろもろの習慣を織り合わせたものにほかならないからだ。」148項


「しかしながら、子どもを社会的な人間の仕立て上げる際、唯一の正しい出発点は、子どもを社会的な人間として取扱い、同時に子どもが個性のある人間になるように勇気づけることである。
 新時代の教育者は、計画的に秩序立った経験にもとづき、子どもに、人生の大きな相互関係のなかの自分の位置づけと、自分を取り巻くすべてに対する責任を見出すように、だんだんと教えるべきだ。また一方では、子ども各々の生存の表明は、子ども自身や他人の害にならない限り、圧迫されてはならないことも、だんだんに教えるべきだ。」150項


「教育者は子どもに、『ほかのみんながやる』ことの模倣は決してしないように助言しなければならない。教育者は、子どもにわが道をゆく傾向を見た場合は、むしろ喜ぶべきである。」151項


「子どもに、世論や流行の習慣やありきたりの感情から離れる勇気と良心を安定を与えることは、集団本位の自覚だけでなく、個人本位の自覚を教育する上の基本条件である。」152項


「曲げる――これはまさしく特色ある言葉で、自己抹殺、屈従、従順など、古い見解による理想に従って曲げるということである。しかし新しい見解では、人間はまっすぐに正しく育つべきものとする。したがって、他からの力で絶対に曲げはならず、もし弱いなら支えをするだけでよいのである。」153項


「子どもはある程度、完全に服従すること、特に無条件で服従することを学ぶべきである。」154項


「赤児は、言葉を使わないで、効果的に手早く取扱うべきである。ルソーやスペンサーの指示に従えば、教育者の努力は、その時期の子どもに、印象が経験に結びつくようにし、それによって子どもにある習慣をつけることになる。
 たとえば、泣きつづける幼児を泣きやませねばならないことがある。苦痛に対して泣くのは、子どもの唯一の警報であるが、泣く原因が病気またはその他の苦痛でないことを知ると、力ずくで泣きやませるのが普通である。しかしこれは、子どもの意志に勝ったことにはならないし、子どもの心のなかにできる映像といえば、小さな者が泣くと大きな者がをれをぶつという因果以外の何ものでもない。これは道徳的な考え方ではない。もしもそうではなく、他人を苦しめる者は、苦しめられる者は、苦しめられる者と一緒に居られないものだと説明して、泣き叫ぶ子どもをただちに一人ぼっちにする、しかも、容赦なく必ず一人ぼっちにする、そうすれば、不愉快な人間は孤独にならなければならないという体験が、基本的に子どもの身につく。子どもはどちらの場合でも、不快だから泣きやむ。しかし、一つの不快さは子どもの意志を超えた強制的取扱いによるものであり、もう一つの不快さは徐々に意志の自己完成を喚起し、かくしてこのよい動機によって泣きやむ。一つは下等な感情、すなわち恐怖心を呼ぶ方法であり、もう一つは意志が生活の最も重要な経験の一つと結びつくように方向づける方法である。一つは子どもを動物的立場に置く罰であり、もう一つは人間の共同生活の大きな基本的な掟を心に刻みつける罰である。共同生活の掟では、わたしたちの愉快さが他人の不快さを引起こすときには、他人はわたしたちの愉快さを妨害するか、またはわたしたちの「力の行使」に道を譲って引込むかのいずれかである。」155項


「行動の自由のための条件は、他人のものを損なわないことであることを学ばせる。」156項


「危険については、もしも子どもにあらかじめ恐ろしいことを知らせておきたいのなら、そのもの自体の恐ろしさを体験させなければならない。なぜなら、たとえ母親が、蝋燭に触れたからといって子どもをぶっても、母親の留守のとき子どもは蝋燭に触れるであろう。しかし子どもに蝋燭の熱さを思い知らせておけば、後で触れるようなことはしない。少し大きくなって、たとえば男の子がナイフや銃などで間違いを起こしたとき、一時それを取り上げなくてはならない。多くの子どもたちは、大切な物を失うよりもぶたれるほうを選ぶ。物を失うだけでも生活の厳しい営みを経験させる実地教育になるのだ。この経験はどんなに強く印象づけても、それで十分ということはない。」157項


「子どもには命令すべきではなく、むしろ大人に対するのと同じように丁寧に話しかけて、礼儀を自然に学ばせるべきだ。」158項


「自発的な後悔、すなわち衷心から許しを乞うことが意味深いのとは反対に、心の動きを強制された場合の後悔は無価値である。」159項

「教育者が子どもの生活に干渉する場合には、大小を問わず、自分の子ども時代の同様のケースにおける自分自身の感情を振り返ってみるべきである。」160項


「物を与える喜び、小さな楽しみや満足を自分でつくり出す可能性、同様に自分のものでも他人のものでも壊したら自分で償う方法などを会得させるためには、なるべく早い時期から子どもに一定の家事労働をまじめに実行させ、それに対してささやかな報酬が得られるように習慣づけることが必要である。反対に、子どもは決して一時的なサービスで報酬をもらってはならない。たとえそれが子どもからの申出であっても、子どもが頼まれたのであっても同じことである。なぜなら、無報酬のサービス意欲だけが子どもに善意の喜びを発展させるからだ。子どもが自分の要らないものをやると言ったとき、これを受取る振りをすることだけはやめるべきである。なぜなら、つまらないもので偉くなったような満足が得られるという、誤った認識を子どもに与えることになるからだ。
 一歩一歩子どもに生活の実際を経験させ、たとえ子どもを痛い目に遇わせることがあってもすぐりの木から前もって棘を抜いておかないこと、これは一言でいえば、今日の教育者がいまだに最も理解を欠く点である。それゆえ、『正しい』方法が絶えず失敗し、人生の現実に何ら関係のない嘆かわしい手段に手をつけざるをえなくなるのだ。特に今日、厚かましくも拷問に代る教育手段といわれている手段が打擲ではないか!」160項


「子どもも動物も、笞なしで教育することはできるのである。ただしこれをよくするのは、自身が真の人間である人間によってのみである。」161項


「子どもをぶつことは、妻や下僕や兵士や罪人に笞刑を加えるのと、同じ低い文化段階に属すると人びとが理解することが教育の根本で、そこから教育者が養成されるであろう。」164項


「しかし、瞬間的に効果の上がる手段によって成功するのは、悪意の表面化を抑制するだけであって、意志そのものの矯正にはならないことを、これらの教育者たちは理解していない。力ずくで抑えられた過ちは、子どもがあえてこれをおこなおうとするときには、いつでも表面に出てくる。子どもの発育問題について唯一有効な努力の近道は体罰なりとする教育者は、逆に子ども自身を迂路に誘い込んでしまう。子どもの自己抑制の能力と意志を、徐々に強めることこそ、唯一の有効な発達を促進する道であるというのに。」169項


「わたしは、誘惑やおどしで子どもを風呂に入れるところを見たことがある。しかし、誘惑もおどしも子どもの勇気や自制心や意志の力を成長させることにはならない。入浴自体を魅力的にすることに成功したときに限り、意志のエネルギーは発展し、内面から恐怖または不快感を克服し、真の感銘を与えるのである。」169項


「大いに骨を折って、徐々に目立たないように善を積み、個人およびその周囲により多くの幸福をもたらすという確信を築くことによってのみ、子どもは善を愛する道を学ぶのである。また、子どもは、懲罰は自業自得の結果であると教えられることによってのみ、その原因を取り除く道を学ぶのである。」170項


「教育者の最大の誤りは、子どもの個性に関するあらゆる現代の論説とは裏腹に、子どもを『子ども』という抽象概念によって取扱うことである。」170項


「体刑は卑怯者を一層卑怯にし、強情者を一層強情にし、頑固者を一層頑固にする。体刑はこの世のあらゆる悪の根源である二つの感情、憎しみと恐怖を強めるものである。」172項


「子どもは繰り返し嘘を言う。ぶつぞとおどされると本当に言うのが恐ろしくて、さらにまた嘘を繰り返す」172項


「子どもが本気で反抗する場合には、体罰が自殺を誘発したり、殴った者に対し殺害を抱かせたりする例をわたしは知っている。わたしはこれと対蹠的な別の例も知っている。母親が反抗的な子どもを膝にのせて、黙って静かに抱きしめただけで、子どもが自然と静かになり自制できるようになった例である。」172項
これ凄くジーンとくる。北風と太陽の話を思い出す。


「穏やかに取扱われるのが習慣になっている子どもたちだけが、暴力手段によらずに、いかにして他人に影響を与えるかを学ぶであろう。この子どもたちは、これが人間の長所の一つであること、暴力的手段の行使は拒むべきものであることを理解するだろう。トルストイと一緒に馬車に乗った旅行者が、なぜトルストイが絶対に鞭を使わないかいぶかった。彼は半ば軽蔑口調で答えた。『わたしはわたしの馬と対話ができる。馬に鞭を与える必要はない。」時と所を問わず、子どもの教育者が野蛮な打