自分の立場は両方かなと思いました。両方の姿勢は成立しないのかな・・・。考えてみたいです。これから仕事なので、いまはできないけど。
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証拠なしに永遠性などを信じています(思想とか世界観を人に押し付けようとかいう心は微塵もないです)。そのほうが僕にとって心が幸せです。日蓮の世界観を信じているし、エリザベスキューブラーロス、ゲーテ、スピノザの考え方とか世界観とか、ほとんど正しいと直感的に思います。科学的に永遠性を証明することはできないので、わからないことを知っています。これは理性の限界(たしかカントの「純粋理性批判」はこの話だったと思う)。そのあとは、損得とか、信じて嘘でも損は無い(ここは疑っているのか)とか、信じたほうが楽しいとか、永遠性を信じたほうがしっくりくるとか、そんなことなような気がする。もし死ぬことがあっても、またどこかで会いたい人に会えると確信しています。証拠はないです。でも僕は科学的な態度を手放しません。基本的には証拠がないものはないと考えてもいいと思っています。でもネッシーいるかいないか、神様がいるかいないかというのは、人生にとって意味が違う。あることを証拠がなくても信じたほうが価値が高いという証拠は集められるかもしれないと思いました。
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「真実を知りたい」という好奇心をとるか、
「信仰をする」という道をとるか、
という二つの選択肢があり、
どちらが人間の幸せにつながるか、
どちらが自他の幸せにつながると、
思うか?
という話しだ。
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