神様いるのか③

学生時代の結論と同じ。信仰と科学的真理を求めることは両立できると私は思います。


理性(科学)には限界があるということが学生時代にカントや科学史などを勉強して考えて分かりました。証明できない次元で、在るとか無いとか議論をするのはナンセンスだと思う。ただ存在が証明できなくても、ある世界観(例えば宗教)を信じることで、人生にどのような価値があるのか考えることは意味があると思います。価値の次元で問題にすることには意味があるし、データを集めることは可能だと思います。


科学的思考は理性や科学の限界内で意味があることです。存在レベルで世界の永遠性(神様など)の議論をするのは意味がないと思いますが、信仰の価値の次元・現証(どのような結果)や、文証(文献の有り無し)や理証などのレベルで科学的な態度(証拠主義)を取れます。だから信仰と科学は両立できると思います。現証(結果)に関しては脳の分野にデータを求めるとおもしろいかもしれない。


でも神様が存在するのかという問題では両立しないと思う。科学の分野で神様の存在の有り無しを考えても意味がないですし、両立するのかという問題自体がナンセンスなような気がします。とにかく神様がいるのかいないのかという議論は意味がないと自分は思います。たぶん信じるか信じないかしかないと思います。神様を信じることと、真実を知ろうする好奇心(科学の心)は両立するはずです(科学しようとする心を失わなければ。科学を分かっている人は科学の限界を知っているはずです。その範囲での探求はやめない。科学的態度を捨てた信仰は狂信だと思います。当たり前ですが道理に反することを自分は信じません。)。


信じるか信じないかなので、神様を信じるならどんな神様を信じるのかという問題はあります。ユダヤ教みたいな人格神があれば、大乗仏教の諸天善神や法(ダルマ、これは神ではないか)などいろいろあります。スピノザの神は非人格神だったと思います。