メモ ニーチェ ショーペンハウアー 良書 リーディング・ワークショップ

「書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない」(ショーペンハウアー
他人の血を理解するのは容易にはできない。読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む」(ニーチェ


プラトンから思想を鵜呑みにすることではなくて哲学すること学び、哲学することに到達すること。
カントも哲学することを著書で教えたかったか伝えたかったか、そういう意味のことをかつて読んだことがあります。読書教育に力を入れて小学校の教育現場で働いているのもあって、とても考えさせられるニーチェショーペンハウアーの言葉です。


「幸福な人生などというものは不可能である。人間の到達しうる最高のものは、<英雄的な生涯>である」(ショーペンハウアー

「わたしはあなたがたに<超人>を教えよう。人間は克服されなければならない或物なのだ」(ニーチェ

内村鑑三ソクラテスと思い出す。たしか内村鑑三ソクラテスについて本を書いていた。



プラトンは幼稚なカントではないか。歴史背景から考えると見えてくる意義。解説もよかった。

ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)

ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)



「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」(ショーペンハウアー

「書かれたすべてのもののなかで、私が愛するのは血をもって書かれたものだけだ」(ニーチェ


 上の近くにはこのようにも引用があるみたい。読んだことはあるはずだけど、上はショーペンハウアーの「読書について」からだと思う。血をもって書かれた良書は彼らも繰り返し読んできたのだろうということ。自分も少し生きて読んできて、ニーチェショーペンハウアーの気持ちに近づいてきた。良書には大きな価値があって、その認識も深まってきているし、たぶんそれを読めば読むほどその気持ちや価値の認識が深まるのだと思う。学級に良書を読もうという文化を育てたい。


 ここ数年思うのは、中途半端な読書はたしかに読む力を育てるけれど、その半面、小賢しい人を育てるだけかもしれないという実感。夏目漱石の言葉をよく思い出して…。ただ短い期間で人間が出来上がるみたいなことも思ってもいなくて(自分のことも考えてもそりゃあそうだ!)、人生という長いスパンから考えて、読書教育に力を注いでいます。


意図的に
良書の価値について、年に数回語ることは大切だと思う。RWも自由読書だけではなくて、ブッククラブの中に良書を混ぜていくこと。限定した中から選ぶことを利用する。僕のできることじゃないけれど、教科書の文学作品の質をさらに高めてもらいたい。『スイミー』やローベル『お手紙』、新美南吉の『ごんぎつね』などは紛れもない良書だと思います。他にある微妙な作品についてさらに精選してもらいたいと僕は思います。


アトウェルも古典を読もうというのが期待していることの項目に含まれている。期待していることを項目で伝えるというのも一つの方法だ。少しずつ変えながら繰り返す。項目で伝え、エピソードで伝えなどなど。


良書を読んでいる人の声を意図的に共有する。


たぶんいろいろできることがありそうです。一つの学級や個人の期待するゴールとして考えていこう。


血を注ぐということでは魯迅の言葉を思い出す。
血を注いで書かれた書もあれば、血を注いで育てられた人もいる。


もっと子どもたちに真剣になれるし、ならなくてはと思う。
そりゃあ、一生懸命やっているけれど、一生懸命のレベルが自分は低いと思う。
真剣さのレベルが低い。
僕は歴史上にも実際にも本当に誠実で真心の人たちを経験してきている。その人たちに一歩でも近づけるように努力はしたいし、するべきだと思う。反省することがたくさんある。



良書でブッククラブをする場合、短編でやるという方法がある。短編だとリスクが少なくなる。これからIpadなどで電子書籍が教材が日常的に使えようになった時に教材の幅が広がって、その方法をやりやすくなるかもしれない。今でも図書館の団体図書で相談すれば、できないことはないです。岩波縛り、古典縛りは難しかった。どこかに逃げ道が必要かもしれない。またはもっと本を精選して難易度に幅をもたせるなどするか。