九識論

Tさん

よく分からないのが、なんで、九識みたいなヨーガ学派的なものをありがたがるのかな。
日蓮大聖人も、いろいろな問題が渦巻く六識の世界で修行をといってるやん。
あれ、完全に「止観」=瞑想=ヨーガ行の否定の言葉やん。
「止観」=瞑想=ヨーガ行は、修行の対象を、彼らの体系では、低くて卑しい六識から、七識、八識へと下ろしていくやん。
第一、九識というのは、さらに、そこに神道真言密教が混交して入ってきたものやん。
だから、大聖人は、九識ではなく、六識に修行の場を持っていけといってるわけ。
分かるよね。九識を言ってるのじゃない。九識を否定してるわけ。
「九識ってへんだよね」という言葉に「九識」が入ってるからといって、「九識」をこの人は賛嘆している、とはならないよね。
なぜ、大聖人仏法を、大聖人が否定したものへ、ものへと、貶めるんだろう。

十界互具。十界論を否定している日蓮大聖人。九識論も否定している。



「寿量品の「久遠の仏」とは、この無始無終の根本浄識の
人格的表現とも言えるでしょう。この根本浄識を触発することによって個人の善悪の業エネルギーは、すべて価値創造へ向かう。」『法華経智慧


だから、何度も言いますが、「引用」と「主張」というものを切り分けないとだめです。

根本浄識というのは、大聖人仏法ではないですよね。神道であり、ヨーガ学派です。

その、当時、中古天台でよく使われていた言葉を、
現実的な場へと、活動の領域を開いているから、この文章は、正しいんです。

なるほど。やはり十界互具。



認識が少しずつ正確になっている。十界互具はもともと知っていたことだけど。
十界論と十界互具論は全然違うんだということなど、もの凄く重要なところ。