互具

Tさん

日蓮は「観心本尊抄」で、当時の中古天台の、九識論を根本とした一念三千観を真っ向から否定して、「互具」と言ったわけです。
互具は、いわゆる「九識」の正反対ですよね。
(第)九識は、神道真言宗・更にはヨーガ行派にルーツを持つ考えで、
まっさら、清浄無垢の「根本浄識」。
対して、互具が意味するものは、混雑、混交、入れ子細工の、悲しみも苦しみも喜びも、いつも転変する心。
それは、九識論では、真っ向から否定されるわけです。
そんなのは、低い命だ!、第九識は汚れなき命だと。
つまり、「互具論」と「九識論」は、トレードオフの関係にある。
対立関係にあるわけです。
当時、大聖人は、中古天台へ全面的な批判を繰り返していた。「立正観抄」にそれは、詳細に述べられます。
中古天台は、「我々には仏界がある。だから修行などしなくていいのだ。人はそのままで根本清浄心がある。だから、苦しんでいる人は、そのままで仏なんだから、ほっといたらいいんだ」と言い出したわけです。
そのままでいい。これが九識=根本清浄心の恐ろしさです。
九識は、ユングの集合無意識と類似するという人がいます。
まさに、根本でみんなつながっているということです。
それが九識に似ている、近い、とね。
でも、このユングの集合無意識は、ナチスドイツのファシズムの思想的バックアップをしたわけです。
みんな同じドイツ人だ。でもそのなかに汚れたヤツがいるぞ、ユダヤ人だ!殺せとね。
根本清浄心神道でいうと、清く明けし(き)心です。
これが、日本の国家神道の根本精神となっていったのもご存知だと思います。
それに対して、大聖人は「互具」というわけです。「六道を離れるな」と。
「互具」は分かりますよね。つまり仏界の中に、地獄界も修羅界もあるわけです。清く明けし心なんかじゃない。いつまでたっても、悩みや苦しみは無くならない。そのなかで、尊厳を持って生きていく。

清らか、清浄。
それは、イジメを支える根本精神、
おぞましい民族浄化を支えた根本精神。
汚い、臭い。
僕、旃陀羅が子ですが、なにか?
服ぼろぼろで、顔ぶさいくですが、なにか?


そのみんなの中にユダヤ人がいない。みんな繋がっているという考えは全体主義に陥る危険がある。ただみんな関係し合っているように見えるのも確かだと思う。そのみんなの中に何かを排除する精神は何か。それが「清らか」「清浄」(この言葉には反対を排除する精神があるのだろう)。これがいじめや差別を支える根本精神。子どもたちの中でも〜菌だなんだってはじまる。



そういえば『スッタニパータ』のブッダは人は常に汚物を体から出していて、みんな汚れているという認識だったと思う。