自分なんて

Kさん

「自分なんて」という思いと戦う瞬間が、人生にはある。法華経は、その、「自分なんて」と、自分で自分を見限る気持ちから、ひとを、どう救い出すか、ということに注力した経典だと思う。7つの譬喩も、各種の方便も、過去からの因縁も、永遠の仏の存在も、すべて、「自分なんて」をうち破るための智慧のことばといえる。
法華経智慧』にも、そのことが書かれている。法華経を法理的に理解するだけなら、迹門(前半14章)だけで事足りる。なぜなら、迹門で十界互具は完結するから。それなのに、わざわざ、本門(後半14章)が説かれるのはなぜか。永遠の仏が説かれるのはなぜか。池田先生は語られる。それは、始成正覚にたいするとらわれを打破するためである、と。すこし難しい話だが、要は、「自分なんて」という、自分で自分の限界を措定するような、そういう固定観念を打破するために、十界互具の真実を、体験を、釈尊は語ったのである。
衆生のほとんどが「自分なんて」にとらわれている、その濁流のなかで、日蓮もまた、人びとが拠り所にできるような中洲をつくり、さまざまなことばを用いて、そこに人びとを導いているように見える。
「自分なんて」「誰からも必要とされていない」というような、絶望的な思いを、すぱっと否定するのではなく、その気持ちを悪だと措定するのでもなく、あなたが必要です、大切です、と、譬喩や方便を使って、転換させる。その、慈愛といったら、すさまじい。

大事なことを言われています。
自己卑下することが結構ある。
自己卑下が相手を傷つけることがあるって、ゴリさんが振り返っていた。


日蓮仏法のとても大事な側面。



哲学は概念を創造する営みだという話を思い出す。
宗教もその一面は概念を創造する営みなのかもしれない。
科学も同じく。


それぞれの違いも考える。


すべての人に仏性がある。すべての人が尊い