読書 still learning to read

Still Learning to Read: Teaching Students in Grades 3-6

Still Learning to Read: Teaching Students in Grades 3-6

前に熟読した本で、
重なっている部分もあったから、お風呂につかりながらざっくり全体を読めてしまった。
リーディング・ワークショップの基本文献の一つだと思う。


読んで考えたことや思い出したこと。


時間があれば目標別のグループの読書活動、ガイデッドリーディングやってみたいなと思うけれど、そんな時間はなさそう。まねできそうな実践記録があった。


本を読んで考えたことを付箋に書くということは、前にやっていたことがあったけれど、もうやっていないです。理由の一つは、僕自身の読書生活でまったくしないことだから。何かしないと教育しているという気分になれないからだろうか、いろいろやってしまいがちだけど、削ったほうがいいこともあると思う。そこから考えると読書感想文も書かないか。読書して考えたことメモするくらい。あとはすごくたまにブックレビュー。ただ大人がやらないからといっても、子どもたちに重要ではないと必ずしも言えない。


どこでも上の偉い人たちが自由読書は学習ではないと言っていた(そういう認識なんだと思う)。しかし最近やらされている人権教育の研究の視点の一つが自己選択です。この自己選択のど真ん中をいく学習が自由読書です。本をよく読めるようになるためには、子どもたちが自分にあった本で、十分に読むことを試行錯誤する時間が必要です。ただ読んだことの思考の足跡が何かしら残る工夫が必要ですし、読む本に困っていれば、こんな本もあるよ教師からの提案も時に必要で、ただ放置するわけはないです。それに読むことの目標、例えば自分と関連づけて読むなど、学習目標との繋がりでやるので、ただの自由読書ではなくなる。どの学年でも本を紹介するような学習課題があると思う。本はともだちみたいな名前の単元(ここから教育計画の中に自由読書を位置づけることができる)。それとの関連でも、いきなりその単元の学習をやるのではなくて、普段から規則的に本を読む時間を確保するべきだと思う。子どもたちはきまった時間に本を読む時間が規則的にあるから、見通しをもって、計画的に読書をすることができます。

こうことを各家庭にまかせるとなったら、それこそ無計画に放置していることになるだろう。


それに読書が言語の用法にたくさんふれる機会であり、語彙力という言語の根本的な力を高めるであろう学習であるということが、学術的に証明されている。


朝の
10分間読書では、たしか教師も読んでモデルを示すべきだとあったけれど、モデルを示すのもいいけれど、それは子どもたちが自由読書をしているにできることの一つに過ぎないです。時と場合によるけれど、読む本に悩んでいる子がいても、本を読む姿を見せながら見守ることもあるけれど、時には介入し、こんな本はどうかなと提案することもある。僕は、自由読書の時に、誰がいつ何を読んでいるのかは記録するようにしています。あと必要に応じて、個々と話すこともある。



この本をはじめから最後まで丁寧に読もうとは思わないからな。
部分的に再読するかもしれない。
とても大事な貴重な実践記録だと思います。
ああ、もうある意味読み終わってしまった…。



体育の
鉄棒とかと同じ。
その時だけやっても身に付くものではない。


だから自分はどうするのだー?


子どもの「遊び」は魔法の授業

子どもの「遊び」は魔法の授業

ここに学習は子どもたちの手が届く範囲からやるべきだという原理があって、それは読書でも変わらなくて、自由読書の前提に、子どもたちの手の届く範囲に十分に本があることがのぞましいです。でもそれがハードル高くて、リーディング・ワークショップの実践が広がって行く事を阻んでいるように思う。