読書 法華経の智慧

普及版が電子書籍iPad2の動作がもさもさしていて読みにくすぎた。
読み比べするのが困難。旧版との読み比べするなら普及版も本で買わないと厳しい。



旧版の特に1巻を読み直して…。


イーガンの教育学体系と不思議な一致に驚く。

戸田先生が獄中で「身」で法華経を読んだという話。
僕はこの話を1000回くらい読んだり、聞いたりしたと思う。


イーガンによれば、
人間の理解様式は5つあるという。
身体的理解、神話的理解、ロマン的理解、哲学的理解、アイロニー的理解。


例えば読み書きに関するロマン的理解の発達は哲学的理解を助ける。
この中でも身体的理解ははじめから、アイロニー的理解の発達が進んだ後にも貫く人間の理解様式として存在する。


信仰はただの理論的なものだけではない。最終的には身体的に理解されるものです(言語的にもだけど。言語を離れてもないけど)。
宗教は、決して科学にはあるとかないとか言えない領域を一部だけど扱っています。


でも身体的な故に、神秘体験などの代表される怪しい宗教もたくさんあるので、要注意。
この問題に関してはカントの宗教批判や柄谷行人の宗教批判が僕は役に立つと思う。
宗教をカルト化、ドグマ化しないためのコツは学問(や哲学)にある。



法華経は物語と比喩に満ちています。
この二つは、イーガンが指摘する理解様式の道具の一部。
法華経を書いた人たちは、この物語と比喩で何を伝えたかったのでしょうか。




●教育は知識の伝授が目的でなく、学習法を指導することだ。研究を会得せしむることだ。知識の切り売りや注入ではない。自分の力で知識することのできる方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ。労せずして他人の見出したる心的財産を横取りさせることでなく、発明発見の過程を踏ませることだ。こんなことはコメニュース以来ペスタロッチ以来、だれでもが、口を極めて吾々教育者に鼓吹したことだが、真の意味の実物教授さえも行われていない。昔ながらの形式的の非難が相変わらずたえないのは、けだし教師その人の研究指導が不充分だからだ。(「創価教育学体系」四巻第一編)

ここのところが引用されてた。

方便品のところ。
嘘も方便の方便。


ここもイーガンと一致するところ。

方便も理解様式の道具の一つと言えるだろう。


教育というものが、様々な認知的道具を精神に獲得させるものだというイーガンの考えは、牧口先生の考えとも重なる。



僕はイーガンや牧口先生のおかげで、教育の真の目的を理解できました。
僕はこの二人が主張していることが正しいと思います。


方便とはサンクスリット語でウパーヤ、英語でアプローチ、つまり「接近」「接近の手だて」を意味する。


仏教の文脈だと成仏に導く教育方法であり技術と考えられる。