昨日の補足。

カントの認識論の認識=直観+悟性だといった時の「直観」は、ひらめきとか、直感、勘が良いという意味ではなくて、五官で直接観察するということを意味します。

僕は最初、大学生の頃、「直観」がひらめき、物事を直感的に感じ取ること(第六感)だと誤解していたのですが、カントやペスタロッチの「直観」は読んで字の如く直接観察するという意味だと大学生の時に教えてもらった先生に修正してもらいました。


認識の一番の基礎は直観にあって、そこから作文教育では、文章を直観することが大事だという話になってきます。直観からの類推的な学習ということにも繋がってきます。ペスタロッチ主義の教育理論にも繋がってきます。


それでカントの認識論がおそらく源流にある
ペスタロッチなどの流れの教育の考え方をショーペンハウエルが「教育について」というエッセイで分かり易く説明してくれていますので、最初の段落を紹介します(教育学の歴史の中でとても大事な作品だと僕は思います)。


「わたしたちの知性は、その天性に従い、もろもろの直観を抽象することによって、必ず、概念を作る。だから、まず直観が存在し、概念は後から出来るのである。そこで、この過程が、真に、ただ自己の経験のみを、師として学び、書として読みとる人におけるごとく、実際に行われているならば、人は、いかなる直観が、自己の有するいずれの概念に所属するか、また、どの概念によって代表されているかを、すっかり了解することが出来て、みずから直観と概念との両者を精確に知り得るから、自分の前に現れる事物すべて、正しく取り扱うことが出来るだろう。わたしたちは、このような方途を、自然的な教育と呼ぶべきである。(「教育について」ショーペンハウエル

このあとにショーペンハウエルは、直観に基づかない自然的ではない教育を徹底的に否定しています。


でもヴィゴツキーや、最近の教育学者であるキエラン・イーガンは、直観が基礎にある自然的な教育だけではないよね、人は空想から学ぶこともあるし、概念(知識)体系から、また具体的なものに戻るような方向の学習もあるよねということなどを指摘して、ペスタロッチ主義的な直観教育を批判しました。


たしかに学習には、概念だけで学ぶことがあるなど、そのような側面があると思うのですが、そういった教育や学習の土台にも、直観があるということに変わりはないわけです。例えば、ユニコーンのような伝説の空想の生き物は、たぶん僕たちの直観のストックにあるものを頭の中で組み合わせたものです。空想にしても夢にしても、そういった表出(アウトプット)は、僕たちが直観したものの組み合わせ以上のものには、なかなかならないのではないかと自分は考えています。

アトウェルの学校の生徒たちみたいに自分らで子どもたちが評価基準を作ったとしても(それでその基準を概念体系をヴィゴツキーが指摘するように読み書きなどの学習に活かすという方向があったとしても)、その前には、ある特定のジャンルの文章を直観する(さらに比較し類似性に着目する)段階が存在するということです。


あとこのカントの認識論は、体験(直観)から出発する体験学習法を支持するものだと僕は考えています。

僕はカントの認識論のはじめのところをしっかりおさえたら、そのあとのペスタロッチやヘルバルト、デューイなど、いろいろな教育理論の考えを前よりも理解しやすくなりました。