楽器もアナロジー。
ギターからベースへ。
ドラムから、その他の打楽器へなど。
それだけヘルバルトの類化理論が普遍的だということ。
最近思ったこと。
教育思想を学ぶならカントまで戻ったほうがいいと思う。
カント→ペスタロッチ→ヘルバルト→デュルケム→
カント→デューイ(デューイの学位論文はカントについてだったらしい)→キルパトリック、レッジョエミリアなどいろいろ
カント→ペスタロッチ→ヘルバルト→牧口常三郎→
カント→ペスタロッチ→フレーベル→
などなど、カントを踏み台にして、次の思想がある。カント思想のインプット(批判/吟味)があって、つぎがある。あとデュルケム、牧口常三郎、デューイなども一緒に学んだとほうがいいと思う。本当に中身が本質的で圧倒的に豊かだから。
今の認知科学の発展には目覚ましいものがあるし、いろいろなことが明らかになっているのだろうけど、大きな結論はそれ以前の教育哲学や教育学が先行している。心理学は違ったアプローチでその結論を証明したり、またその結論の細かいところを明らかにしていると思う。間違いが明らかになることもあるだろうけど…。
ただ自分はヘーゲルは原著(日本語訳)をまったく読んだことなくて、いまいちその価値がよくわかりません(苫野さんや竹田青嗣さんたちの流れから、やはり読んでおきたいけれどまだ読めていない)。ヘーゲルは、たしかカントと同時代か後の人だから、どちらにしてもカント思想の認識が必要。
これが分かってると、そのあとの教育思想を理解しやすくなるし、そもそも、その前提が分かる。
というか、カントの全貌なんてとてもつかめないけれど、その一部だけでも理解できるだけでも違うと思います。
ペスタロッチの教育学も今の教育もカントの認識論(その修正/発展)がベースにある。
カントやペスタロッチやヘルバルトなどをおさえないで、その後の教育学者や心理学者のたくさんの議論をいくらおさえても、遠回りになってしまうと自分は思います。
自分の直観がベースですが、
基本的な古典を押さえつつ、最新の認知科学を追うのが、できるだけ時間を無駄にしない道なのかなと思いました。
8年間くらい教育の仕事を経験して、古典も昨今の教育論も両方読んでみて思ったこと。
なぜだか、カントまで遡って教育学を論じている人がものすごく少ない。僕がその少ない人をたまたま見れたのは、牧口研究のおかげだと思う。
デューイまではわりと読まれるけど、デューイに大きな影響を与えているその前の人たちがあまり読まれてないようです。デューイを読むと、ヘルバルトもカントも出てくる。ヘルバルトを肯定的に評価しているところもあれば、否定的に評価しているところもあった。日本のデューイ受容のイメージと日本のヘルバルト受容のイメージだけだと、彼らは水と油みたいに思えるかもしれないけれど、そんなことなかった。デューイは進歩的な教育を礼賛するだけではないです。デューイは進歩的な教育に対しても批判的なまなざしをもっていた。
でもヘルバルトの何を評価し、否定していたのか忘れてしまった。読んで書かないと自分に根付かないし、どんどん忘れていってしまう。
- 作者: デュルケーム,小関藤一郎
- 出版社/メーカー: 行路社
- 発売日: 1981/10
- メディア: ?
- この商品を含むブログ (3件) を見る
ヘルバルトの類化論をデューイは高く評価していました。思い出した。