教職大学院で学ぶことと現場で学ぶこと 

教職大学院で学ぶことと現場で学ぶこと 

 とても短い時間だけど、実家に帰ったら、自分宛に届いていた母校のパンフレットを渡されて、夏休みに教職大学院について考えました。でも僕の免許は2種なので、卒業するのに3年間かかるらしい。3年間はきつい・・・。それに現場を離れて歴史やら理論やら学びたいことがほとんどないということも明確になりました(一つの歴史を調査するにしても、学術に人生を捧げるような関わり方をしないと難しいと思う。)。学術的な調査をやりたいわけではない(つまり何か問いがあって、新しい発見の価値を生産したわけではない)。僕も場合はあくまで実践のための学問なので、僕の問いに答えるための知識が構成できればいい(大学生の時も自分の問いって、すでに他の誰かが解いていることが多かった。だからその関連する文献などを読むと問題をかなり解決できてしまった。)。そのための歴史や理論の探求。歴史や理論の探求が、そのまま、授業など仕事の計画や実践に繋がる。それを現場で検証し、磨いていく。それができればいい。現場にいないとできない。だから大学院に僕は行かないです。

 現場でもうまく条件制御がたまたまできて、比べられるような時がある。そんな時には、観察だけでもかなり手立ての有用性を実感できるがある。それが他の方にもわかるような説明ではないのが限界なんだけど。それでも、複数の学級の子どもたちの作品を集めて比べれば、いくらか手立ての有効性が明らかになるのだろうけれど、そういった説明にもあまり興味がないのかもしれない。こういう問題については、問いが近い学術的な論文があれば、その結果を参考にすることができます。もし仮になくても証明したいという欲求が自分にはあまりないです。

 それに僕は数学が好きだけど、あまりできない。統計学も独学で少し勉強したけれど、研究者のレベルでは全くない(せめて読めるようになりたい)。数量的に細かく統計を使って比べる力にも乏しいから、そういった調査をするにしても、統計学を身につけるところが始まることになる。しかし、そういう調査を自分がしたいと思わない。

 プラトン、カント、ペスタロッチ、ヘルバルト、ヴィゴツキー、デューイ、牧口常三郎、キエランイーガン、認知科学のアナロジーの研究など、いくつか関連や類似が明確になってきたところがあるので、やはり今の自分のテーマを現場の中で探求したいです。

 大学4年生の時に、自分の能力的にも、色々な意味で大学院は無理だと諦めた時を思い出します。

 でもそんなに切実な問いがなかったとしても、大学院で学術的なトレーニングを受けられることが羨ましいなと今でも思います。

自分には、大学院で研究したいという切実な問いがないのが大きいかな。あったら、関係ないか。あったら問答無用に大学院を目指すのだと思う。ここが一番の肝だ。大学生の時の判断と変わらない。

何かを大学院で研究するというのは、人生の一部を捧げるということ。そんな甘くない。色々なことを諦めて、大学院の研究をすることになる。トレードオフか。色々なことを振り払う問いは自分にはないんだなあ。高崎 隆治先生のことを思い出す。戦時下の文学を研究すると言ったら、食っていけないぞ言われたらしい。それに対して、もしそうなら、飢え死にすればいいと答えたというエピソード。切実な問いがあること。

今の自分の教育実践に関するテーマだったら、外から観察、実験する方法と実践の中から何事か明らかにする方法があると思う。自分は実践の中からやるってこと。

そこでは、まず何よりも実践を教材レベルから質を高めることが最も大切だと思う。その実践が価値的で魅力的なのが根本だと思う。飲食店や食べ物と似ていると思う。うまそうだと思ったら食べてみる。よさそうだと思ったら、教育実践は、自分でやればわかるのだ。次に研究者の研究と関連づけることが大切だと思う。歴史の成果と接続すること。自分が比較、数量的な説明を仮にほとんどしなくても、近い実践の数量的な研究を接続することで、説明を補足できると思う。

植木 雅俊さんのことも思い出した。僕よりも少し年が上くらいからサンクスリット語を学んで、日本でも有名な研究者に大成されました。やはり大事なのは、どんな問いを持つのか何だと思う。

現場ではないとできない研究だということ。人がやっているのを観察するんじゃなくて、自分が実践をやりたい。その中で教材も発掘したいし、作りたい。考えだけじゃ教育は実現できないから。

自分は理論や考えだけを研究したいわけじゃない。考えと教育を形作る材料などを含めて総合的に探求したいので、現場から自分がやるしかない。

真理の探求がメインではないということ。ある真理とされていることに乗っかる価値を探求する実践研究だということ。価値の探求がメインだということ。


その中で、死滅しそうで埋もれている考えや理論にも光を当てたい。