あすこまさんin西多摩PACE

あすこまさんの講座に行ってきました。思いついたこと振り返り。
僕は、あすこまさんがアトウェルの実践を吟味して(僕たちに学んだことや見て来たことをまとめて伝えたくれた)、自分の経験と関連づけて考察していたところがとても印象に残りました。アトウェルたちが軽視しているピアカンファレンスを僕も授業に組み込んでいくだろうと思いました。デメリットもあるけど、いろいろな視点からのフィードバックが有用だろうというメリットから。それだけじゃなくて、大人数の学級で、重要な工夫だと思うから(教師のカンファレンスだけは不十分だと思うから)。


学級の人数もクラス編成も違うし、そのままアトウェルの実践をまねることができない。それにそれがベストかどうかも分からない。


いろいろな学術的な結論を整理して伝えていました。
それはそれで大事だけど(僕もできるだけ知りたい)、
僕たち、教員を職業するものは、
もっと自分の経験を省察したことを信じてもいいのかなとも思いました。


学術の成果と実践の省察について考えた。

学術の成果はとても控え目です。
分からないものは分からない。確実に言えないもの言えないという結論になる。
でも実践者は決断しないといけない。


自分の経験の強み。
なかなか学者さんたちにはできないような観察を実践者はできると思う。
そこから分かることもあれば、分からないもあるし、関連がありそうだと考えられることもあるけど、この実践者の直観をもっと信じてもいいかもしれないと思いました。というのは、学術的に分かっていなくても、現場の実践者が先に分かる事もあると思うから。実際、たぶんそうだと思う。自分が少しだけど、学術の成果をおって、実践者の記録を読んだり、自分が実践したりして、そう考える。


近道は省察にありじゃないかな。
学術の成果を今はレビュー論文で押さえることができる。
その上でやたらと瑣末なものに足をつっこむよりは、自分が見たこと、直観したことをよく省察するところに近道があるような気がする。あとは優れた実践者に学ぶこと。



あと学術的な成果では、
小学生くらいの子どもたちが書くことのプロセスをメタ認知することは負荷かかりすぎている(書く事のプロセスまるごと経験することも)、難しいということになっているらしい。やらないほうがいいという。そういったことはしないで、書く事のプロセスを切り分けたり、アクティビティをしたりすることが主流になっているらしい。



でもアトウェルの学校の子たちはそれができるということ。


これは学術的な結論が間違っていることを示している(本当に難しいことなんだろうけれど、難しくてもできるのだ。やり方次第ではやったほうがいいのだ。やるべきなのだ。)。反証。
子どもたちの環境や教員たちの工夫次第では、学術的な結論は覆されるということ。面白いところ。

教育実践の中で、アトウェルの学校のその要素の一つひとつにどのような因果関係があるのか、すぐに詳しく明らかにできないとしても、その要素が効果的であると判断できるだけで、とりあえず十分。その要素と要素の関係や、一つ一つの要素について少し吟味すれば分かることもある。



学術的な結果がいくらあっても、
実践者が覆してしまうとしたら。
とても面白いと思う。それにあまりに学術の成果を過信するのもよくない。


教育関連の学術研究は、よく考えたら、どこまでも状況依存的な結果だ。
でも対象を絞って、再現性がある基礎研究はかなり基本的なことが分かるようです。


学問のいいところは方法を明確に示しているところだと思う。
それに控え目なところ。それだけがちがちに慎重でも間違うことはあるし、
教育現象は複雑なので、同じような問題で、同じような実験でも、正反対の結論になることもよくあるらしい。それだけわかりづらいことなのだから、ためらいや躊躇があるべきだと思う。


ライティング・ワークショップは、
「苦手な子への効果は認められない」という学術的な現在の結論だそうです。
思い当たるところありです(ただこれもそのライティング・ワークショップのやり方次第だと思う)。

ちょうどジンメルの本を読んでいて、ヘルバルトが出てきました。かれの五段階説は、その苦手な子にも同じように効果があるそうです。


今の科学的な学問の方法と、ジンメルの時の直観だけでは(いや違うか、この時も教育の研究法があった。)、ちょっとくらべられないかもしれないけど。


自分の直観を振り返ってそうかもしれない
比較的に一斉授業は均質的な効果があるように見えます(これもやり方次第であまりに結果が変わる。)


いや一斉授業=ヘルバルトの五段階説ではないや。

ジンメルは本質的に必要なのは3段階だという。

第一段階は直観(直接観察)すること。


カントの認識論からくるものだけど、カント→ペスタロッチ→ヘルバルトなどの流れは、ワークショップか、そうではないかといった違い以前にある、基本を提供している点で偉大だと思う。








あとライティングもリーディングワークショップもチョイスを核とするものだけど、それは精選されたものの中でのチョイスだということ。これも大事。


質の低いコンテンツと、精選されたコンテンツでは、大きな違いが出てくるのは明らかだから。大事なのは子どもたちの経験にどのような意味があるのかということ。その意味の質を左右するのが学習材料、コンテンツ。



何よりも今日は渡米したあすこまさんの直観を聞けたことがよかったです。とても貴重なお話でした。



切り分けてやるか、繋げて全体としてやるかとか、どちらかなんて、作文教育について少し考えれば可笑しいって考えることができると思う。


書くことのプロセスをまるごと経験するのは、
切り分けて学習よりも負荷が大きいということを自覚するくらいでいいかな。



ライティング・ワークショップでも、いきなり書くことのプロセスをまるごと経験するのではなくて、題材探しから出版までのサイクルを切り分けてミニレッスンで扱うことがある。批判者への批判も大事だとかなあ。



振り返りの振り返りのふりかえり。めためた。
「なかなか学者さんたちにはできないような観察を実践者はできると思う。」

これは大きい。直観が間接的にも直接的にも認識の源泉だから。
担任なんかできると、もう一年間同じ子たちと毎日のように付き合うことができる。
デメリットもあるけれど、学者さんたちとは違ったメリットがあるのは間違いない。
やっている視点は実践者にしかない。



あすこまさんが3年間ライティングワークショップを中学生でとことんやった経験。失敗談も含めてすごく貴重。やはりあすこまさんがやってきたこと、見てきたことのお話がとても印象深かったです。それにあすこまさんはよい読み手であり書き手だから、学術の成果などをまとめるのもとんでもなくうまいと思った。話すのもうまい。よくあんなに充実した内容をあれだけ長時間お話できると思った。それだけストックがなければできないことです。



生活綴り方でも、日記の書き方を細分化して教える。
そこで学んだことを使って、子どもたちは日記を綴って行く。
自分でやるときは、書くことのプロセスをまるごと体験している。
それに自分が書いたことへのメタ認知は小学生でも間違いなくできる。
作文の会の先生の読み合いの授業を見たことがある。


子どもたちはクラスの子の作品が印刷されたプリントをもっている。それを全体で読み合って、考えたことを交流する授業です。子どもたちは書いたことに対して、活発に考えを交流していました。書き手が書いたことへのメタ認知を友だちが助けくれるような授業だと思う。これはその先生がだけが特別ではなくて、他の人でもやれると思う。こういう一枚文集で共有することが僕もあるのですが、まるまる一時間はできないけど、子どもたちのフィードバックがもらえるようにするといいかもしれない。僕の場合、読み聞かせだけになっていたからです。



経験の快不快の側面で、
ライティング・ワークショップはとても強い。
書けなくて辛いときもあるけれど、上手く行けば、つらたのしい経験になると思う。
どんな手法でも失敗したら辛さだけが残ってしまうのだろうけれど。


そういえば作家の椅子で付箋もらえるのも嬉しい。一枚文集でもシェアーする機会に付箋でフィードバックするといいかもしれない。



なぜアトウェルの学校の子たちがよくできるのかたぶん分かった。
優秀な教師による個別カンファランスもそうだろうけれど、類推的学習にその一因があると思う。


振り返ってみて、学術的には、小学生が書くことのプロセスをまるごと経験することやその振り返りが難しいということみたいですが、なぜアトウェルの学校の子たちが、そのことをよくできるのか、その原因を考えると、優秀な教師によるカンファランスなどもそうだと思うのですが、たぶんジャンルスタディ(類推的学習)にも大きな一因があると思いました。このやり方は思想史的にも昨今の認知科学的にもその有効性が裏付けられるものだと考えています。子どもたちはあるジャンルのテキストを読み比べて、その書き手がどのようなことを書いているのか、またそのジャンルの特徴を理解します。そのことを意識して作文に取り組むので、自分がしていることに自覚的になれるのではないでしょうか。この学び方を様々なジャンルで繰り返します。
ぶつぎりアクティビティだけよりは、類推的学習のほうが経験の質が豊なんじゃないかな。これをベースに足りないところは、プロセスを切り分けて教えるといい。実際にアトウェルもこのジャンルスタディの授業とは別に書き出しなどのミニレッスンを別に行っているか。つまり、全体を扱うことをから、そのジャンルの個別の特徴の授業をしている。





そういえば、アトウェルは、このテキストを読み比べてそのジャンルの特徴を抽出するということをやってから、書き出しなどの書くプロセスを分割したミニレッスンをしています。プロセスを分割した書くことのぶつ切りのアクティビティだけよりは、このほうが子どもたちの経験は圧倒的に豊かだと思う。




インプットなしにアウトプットがないという単純な原理。

もしアトウェルの学校の子たちがアウトプットに優れているとしたら、
まずどのような豊かなインプットがあるのだろうという問いを立てて分析すれば、けっこう分かる事あると思う。リーディング・ワークショップもジャンルスタディもふくめて、とても質が高いインプットがあることは明らか。それに加えてアトウェルの学校の先生たちは作文の教師としてエキスパートでもある。その先生たちが個別にカンファランスしてくれる。アトウェルの学校の子たちは、とても恵まれた環境にあると思う。


Making Believe on Paper: Fiction Writing With Young Children

Making Believe on Paper: Fiction Writing With Young Children

そういえば、この先生はまだいるのかな。
小さい子たちがやっている書き換えの授業も素晴らしいから、その積み重ねもあると思う。
僕はこの先生の授業が大好き。


大きい子たちは、カンファランスしている人たちのささやき声みたいなのが聞こえるだけくらい静かだったみたいだけど(それだけ集中しているということ)、小さい子たちはそれなりににぎやかだったらしい。



「直観なき概念は不毛であり、概念なき直観は盲目である」イマヌエル・カント
実際にアメリカまで行って見て、それを自分の経験と照らし合わせ比較考察して話してくれているのだから…。