概念型カリキュラムの肝は概念型の目標の設計。日本の指導案でいうと単元目標になるものだと思う。胚細胞的概念や概念型の目標が定まるとそこからどのようなスキルが必要になるのか、どのような学習活動が適切かなど軽重がつけられるようになって網羅的学習を避けることができる。その一つのまとまり教育実践の最後まで、一本ブレない軸ができる(その根本には思想や哲学があるのかもしれない)。
肝となるところを割とすぐにピーンと理解できたのは、おそらく自分が網羅的学習カリキュラムに苦しめられてきたからだ(何であの経験が酷かったのかというと網羅的学習だったからだ!とピーンときた。『理解をもたらすカリキュラム設計』は2012年に出て読んでいるから10年前になるのか。この仕事の最初の頃から網羅的学習と課題のミスマッチを避けたいというテーマが一貫としてあります。)。歴史なんて、小学校はしっかり覚えていないけど(初めの通史は新鮮だったと思う)、小学校、中学校、高校と網羅的詰め込み歴史教育を受けてきた。僕は自分で読書をして学ぶようにならなければ、一生、歴史嫌いから抜け出せなかった自信がある。網羅的で断片的なつながりのない浅い知識の暗記科目。それが歴史や地理だった。
同業者になったから、あまり非難したくないけれど、教育を学べば学ぶほど酷いものだったという認識が鮮明になります。
パタン記述をする順番は、自分の興味からくるものだと思うけれど、原点に回帰するようなパタン記述が冬休みの終わりにできてよかった。自分は何が嫌で、どのように避けることができるのか、より鮮明になった。
 
網羅的学習という悲惨を避けるための概念型のカリキュラム設計だ。