あすこまさんのツイート読んで考えていること。そこに少し書こうかなと思ったのですが、自分の興味に引き寄せていて、ズレていると思ったのと、僕がツイッター読むの好きでも、書くほうが好きでないのもあって。百何十字という制限が良さでもあるのですが、自分にあまり合わないかもしれない。ゲームアカウントの方はかなりつぶやているからそうでもないのか。
 
概念型の教育。エンゲストロームは、重要な概念を胚細胞に喩えていたけど。10年後に概念型の教育って、まだ言っているかな。ある意味、この転移可能な概念の理解については、牧口常三郎も同じことを書いてると思うというか書いている。しつこいってwでも本当のことなんです。同型的なものを捉えていくのもこれと同じ方向だと思います。転移可能という心理学用語が当時あったのかなかったのか。
 
転移可能な概念を捉えられるように、子どもたちの学習の助けになっていくって、どのような授業法であれ、当たり前の、言い換えれば普遍的で重要なことだと思うなー。
 
RW、WWと概念型の教育って、別物だから区別して理解する必要はあると思う。僕が思うのがメタな視座というかな、パタンから考えると、最終的には、実践者に統合されていくものなのかなと思います。
 
どの科目であれ、総合や生活であれ、学習者が概念の理解を助けるように教育を設計していくって、当たり前のことだと思うけど。算数なんかわかりやすい事例だと思うけど、国語でも変わらないと思うな。
 
勿体ぶって、概念型の教育と言っても、その主張はそれ以上でもそれ以下でもないというか。ただ大切なことだと思う。教育学において、既知へ未知へと同じレベルで重要な真理レベルの知識かもしれないとも思う。
 
心理学では重要は知見と価値づけられているみたいだけど、概念を理解するように助けていくことが重要っていうのは、既知から未知へに近いくらい重要なことだとこれから評価されていくんじゃないかな。もうされているのかな(ランダム比較試験のような研究の積み重ねからもさらに評価されていくのだろうと思う)。経験的に自分の中にも起きていることを考えたり、子どもたちを観察したりしてもそうだと思う。
 
正直、「概念型の教育」とか「概念型の教育の授業」と呼んで論じていくことに違和感があるというか(名前をつけて研究するというのはあると思う、これがどれだけ続くのかな。僕は当たり前のことだと受け取って終わってしまうかもしれない。学習科学の研究の事例だとこういうふうに名前をつけて2、30年間研究していくこともあるらしいから、この先もあるのか。特に概念型の教育はIBでの実績もあるから。でも僕はパタンとして受け取って、研究成果については、そこから学ばせていただきますという感じだろうか)、その中身って、学習者が概念を理解するように助けていくことで、そんなん当たり前のことじゃない?(言い換えると重要だということ)と思ってしまう(自分なりに懐疑、吟味した上で)。
 
このテーマだけで例えば、30年間とかよく研究できると思う。自分は研究者には全く向いていないのだと思う。そこの効果なり、深まりなりを実践的に追っていくことには興味があるけど、あまり科学的に論じることに興味がないのだろうか。自分のことがうまく言葉にできない。そこまでの細かい興味がないんだろうか、単純に。当たり前だと思ったら研究にはならないだろうな。実践に落とし込む時には技術的な知識的な問題が生じるから、そちらの方が興味があると言えるのだろうか。。