第2章が最も長くて、第2章メタ理論Ⅰのところを読んで読了。メタ理論Ⅰのところは、前著と重なる内容だけど読み応えがあって面白かった。迷うこともあるが、これだけの指針を得れば大きな力となることは間違いないだろう。
・p91に〈自由〉と幸福という見出しのところがある。僕自身「自由」ではなくて、「幸福」でいいのではないかと考えていたのですが、ここを読んでかなり納得しました。
・p127にニーチェ思想との比較もある。自由ではなくて力(力能)がもっと根源的な原理なのではないかも考えていたのですが、社会の原理についても考えてもそうですけど、「力能」も「幸福」も重要な概念ではあるけど、「自由」が最も教育や社会の原理として適切だろうと自分も納得しました。これから変わるかもしれないけど。「
・p113に〈教養=力能〉という概念についても説明がある。僕も能力とは別に力能という言葉を使っているのですが、なぜ苫野さんがこのように言葉を使っているのか理解した。
・自由が強いのは、個と社会を貫く原理だからか。幸福も力も個と社会を貫くか。どちらにしても苫野さんの論証に納得した。
メタ理論体系を一部抜粋
メタ理論Ⅱ
「(1)教育学「実証部門」の「科学性」は「欲望-関心-目的相関的」に立ち現れた教育現象を、共通了解可能な仕方で説明(予測・制御)できるよう、「構造化に至る諸条件」を明示し構造化することによって担保される。(科学性担保の理路)」
カント以後の関係論なんだなー。メイヤスーらの思想はこれらを批判するものだ。竹田青嗣さんは、『欲望論』でメイヤスーに思想に応答していた。
メタ理論Ⅲ
「価値を目標とせよ」が指針原理としてどうなのか。「幸福」や「価値」が重要な指針原理としてあることは間違いないけれど、「自由」はもっと根源的な原理なのかもしれないだから、こう修正できるかも。「自由を目的とし価値を目標とせよ」と。
牧口常三郎は価値を構成するものをカント哲学を修正して利・善・美と考えた。ここに「善」とある通り、牧口も個と社会を貫く教育学の原理を提出している。「自由」が価値に含まれると考えられなくもないかもしれない。
僕は苫野さんのメタ理論に大きく、根本的な修正を求めるものではないけれど、経済を原理とすることを付け足し修正した方がいいと思っている。これも何が良いのか悪いのかという教育理論や方法の指針原理(自由や幸福というもっと根本的な指針原理があったとしても)になることは間違いないと思う。
タイトルにある『学問として教育学』を洗練する、教育学の指針原理とするメタ理論体系なわけだ。やはり牧口常三郎も教育学の指針原理となる、シンプルで強力なメタ理論を提出したと自分は思いました。苫野一徳さんもすごいけど、牧口常三郎もやっぱりすごいです。また読み直そう。まだ持っていない全集を買うことも、『学問としての教育学』を読んで、心を固められた。牧口の指針は不十分かもしれないけれど、よりシンプルという点では、苫野一徳さんのメタ理論よりも優れているかな。苫野さんの「幸福」なき「自由」はあっても「自由」なき「幸福」はないか。さてどうだろうか。完全に納得できていないのかな。ふむー。実践者として、両方を指針原理としていけば大きく間違えることはないかな。あと90年くらい前に苫野さんと同じような問題意識で教育学のメタ理論と言えるものを考えた人が日本に世界にいたと何度でも強調したいと思います。
・「自由」がより根本的で適切な原理だったとして、それこそ体験反省的エビデンスから考えて「幸福」が教育学に重要な指針原理であることは変わらない。不要に大きな「不幸」や「苦痛」を感じる教育が良いと言えるだろうか。苫野さんは、著書で他の思想家の原理は、苫野さんの提出した原理を補完するような働きをすると指摘している。