ここも面白いところですね。教育の目的観念を歴史的に縦断的に探究すると教育の目的観念の変遷の法則性、傾向性を捉えることができるということです。 一つは部分的より全体的に。 教育は、家族であったり、貴族階級だったり部分的なものだったわけです。つまり目的観も部分的だった。そして、全ての人の人格やら、自由やら幸福やら全体的目的観へと変遷していったと。 自由がなければ幸福はないと自分も思う。そう考えると自由は幸福の必要条件となる。苫野一徳さんは、幸福は自由と比べて教育の目的として過大だというようなことを論じていたけど、僕は自由では教育の目的として不十分だと思います(幸福の方が自由よりも全体的だと言えるでしょう)。牧口常三郎が論じたことと重ならない、苫野一徳さんが明らかにしたことはあります(「自由」が教育学の指針原理となることなど)。 苫野一徳はご自身の教育哲学の中でこれまでの教育理論は生きてくるというようなことを著書に書いていましたが、それをそのまま苫野一徳さんの教育哲学に当てはめて、牧口常三郎の教育哲学の中で、苫野一徳さんの哲学はいきてくると私は考えます。 このヴォルフガング ブレツィンカの本は、正直、牧口の本と比べて読む価値がない本だと思うけど、苫野一徳さんの本は比べて読む価値のある重要な本だと自分は思います。 https://www.amazon.co.jp/教育目標・教育手段・教育成果―教育科学のシステム化-ヴォルフガング-ブレツィンカ/dp/4472403900/ 牧口常三郎全集第5巻p197より