スキナー


読むのに骨が折れる笑

でもいくつかスキナーが指摘する歴史研究の危険というのは、今もよく起きていることだと思う。僕は日蓮の思想と向き合わなければいけないような巡り合わせに生まれてきたので、仏教そのものをよく調べていた時期がありました。


ブッダの時も、日蓮の時もそうだけど、僕たちが現代人として知っていることに引きつけて、歴史上の人物のテキストを解釈すると明らかに誤りである発見(解釈)をしてしまうことがある。誤解をしてしまう。仏教は因果論を否定して生まれた思想なのに、まったく逆の解釈をしてしまう。むしろ誤認識、誤解のほうが多くの人の理解の主流になってしまっているという。


僕たちは今の人なら知っている科学知識などと関連づけて日蓮の思想を理解しようとすることがあるけれど、でもそのおかげで誤解してしまう危険があるし、無意味な問いにはまる危険もある。


スキナーの本の全体をよく読めたわけではないけれど、
テキストだけに集中するような方法も誤りですし、
だからといってコンテクストだけに集中するのも誤りだということだそう。



テキストの吟味も欠かせない。
コンテキストは、テキストの吟味を助けてくれる。


スキナーの論考の奥にある普遍的なものを取り出すと、
やはり直観と論理。

スキナーは例示しながら、テキストのみを吟味する研究法を誤りであると論証している。



結局、グラウンデッド・セオリー・アプローチでも、歴史学研究でも、その奥にある普遍的な要素は直観と論理です。これは自然科学の研究でも変わらない。直観と論理(言葉)を精緻にしていくことが、人類のたぶん発展や豊かさに地味だけど、根本的に繋がって行くと思う。



論理を装った妄想、それに論理的でもないし、直観(根拠)もない妄想、そんなんがうようよしている。