休日読書
祈ることについての理性の公的な使用。
宗教がベースにある祈りには、特定の宗教固有の文脈があって瞑想以上の意味がある。
それぞれの宗教の違いは信仰する人には、もちろん重要。しかし、それ以上に祈ることに共通していることは、もっと重要だと考える。
僕は、物事の違い以上に共通するところに着目することが大事だと考えている。
例えば、無宗教の人も、特定の宗教を信じる人も、祈ることには、共通して瞑想的な要素があります。瞑想にはエビデンスがあり、昔からある祈りには生活上の合理性があり、瞑想の効果がそれぞれ少なくともあると思います。
特に世界宗教の信仰と祈りには、どれも慈悲や愛の方向に心を傾ける力があるように見えます。
僕の場合は、特定の宗教を信じているので、瞑想以上の意味が祈ることにはあります。祈っている時にその世界観や思想を思い出します。それは、キリスト教の世界観とは違います。
ただ、数学ガールの結城浩さん、内村鑑三、南原繁、佐藤優さんなどがキリスト教の信者にはいるけど、キリスト教の理論には、それだけ人を惹きつける魅力があるのだと思います。それがその人や周りの人の助けになるなら、それでいいと思います。
僕は、祈ることの一部で、最近、法華経の一部をまた音読するようになりました(南無妙法蓮華経を唱えるだけでよいという考えから、法華経を読む習慣が10年以上なくなっていました)。こういうのは絶対的なものではないけど、自分によいものだと感じるのでまた続けようと思っています。法華経の、自分自身が宇宙の一部であるということなどの世界観を思い出すので、ただ瞑想するのとは意味合いが違ってきます。法華経全体が南無妙法蓮華経の比喩的な説明になっていて、感情が触発され、南無妙法蓮華経の意味合いや感じをより思い出せます。
スピノザの神は、南無妙法蓮華経に重なるけど、それぞれ重ならない違いがあります。それはそれで、それぞれ学んで糧にしていけばよいと思います。そして、より重要なのは違いよりも共通点です。キリスト教もそうですが、それぞれの違いを尊重しつつも、共通するところに基づいた調和が目指すところだと思います。
宗教と無宗教の人の共通点も大事だと思います。また結局、それぞれの違いを尊重することも大事かな。でも、共通するところ、特定の宗教よりも精神的な自由など、もっと大事なことは確実にある。
また、特定の宗教の信仰がなくても宗教心のようなものを持ち合わせている人もいる。
特定の宗教の信仰心がなくなっても、生まれの宗教団体に所属し続ける人たちがいる。僕はまだ信仰心が残っているけど、その人たちの気持ちや考えについては、共感するところがたくさんある。僕は、信仰心が残っていても、組織的な活動がもうほぼできていないから、余計に共感するのかもしれない。
理性の私的な利用は、ダメだということではないけど、それは他人に考えてもらうだけというところから出ないので、それだけの人の言葉がまったく自分には届かないという現象が自分に起き続けている。師の言葉を鸚鵡のように繰り返すだけでは、なにも心に響かない。幸い届く言葉はあるのだから、それを糧にしよう。
なぜ池田先生の言葉が心に届くのか。それは、哲学や科学、仏教以外のほかの宗教など、外に出て学んだことから、行動したことから言葉を紡ぎ出していたからだと思う。重厚な思索と行動に裏打ちされた言葉。
「啓蒙とは何か」を数ページ読んでいたら、理性の公的な使用の事例で宗教についてあって、自分の事例について考えていたら、朝読書が終わってしまった。帰宅。