祈ることの現象学
何回か考えたことがある。無慈悲な自分に少しでも慈悲(勇気)の心が出てくるようにと祈ること。これは、祈ることの意味、本質に関わることのように思う。久本雅美さんが昔、自分は、強いから祈るではない、弱いから祈るのだ言っていたことを思い出す。

人間とは何かという人間の見方、理論に関わることだけど、僕も人間で慈悲の心があると信じている。しかし、脳の一部が破壊されるとそういったものは発現できなくなるのかもしれない。多分、祈ることができる間は大丈夫だと思う。

宗教の「宗」とは大本という意味で、キリストの神であったり、仏教の法であったり、大本の教えという意味。祈ることには、こういった大本のネガである「無限」やポジである「神」や「法」に立ち戻るという意味もあると思う。ここのネガである「無限」とは、ほぼどの宗教に共通する永遠の要素のことで、ポジというのはそれぞれの宗教の解釈のこと。大本と言っても、それぞれの宗教で神であったり法であったり、捉え(解釈)が違う。

例えば、スピノザ的な無限の神の観点から考えれば、「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」とチャップリンが指摘するように、悲劇も喜劇に思えてくるかもしれない。人生には、そのような見方・考え方が役立つこともある。

また、祈ると、死を見つめつつ、死を超えた無限の観点から考えて行動できる。僕の場合は、祈る機会がないと、今この瞬間の重力によって地球に引っ張られてへばりついている、目の前のことでいっぱいになっている、有限な自分ばかりになってしまいがち(目前のことばかりになりがちで、宇宙の一部である自分について考えない)。祈ると大きな視野で考えることができるようになる。たしかパスカルが言うように、宇宙と比べると葦のように弱く小さい人間が、祈ることで、逆に無限の宇宙を思考で包み返すことができるようになる。

そういえば、ムロディナウの感情本で、エビデンスのある感情(情動)をコントロールする手段として運動と瞑想(マインドフルネス)が挙げられていた。マインドフルネスには、宗教的な要素が薄そうだけど、祈ることが習慣にあるというのは、日常にマインドフルネスがあることと同じだと経験的の思います。情動(精神)を運動とマインドフルネスは、強くする。

祈ってばかりでは云々という話をよく見聞きしたが、祈ってばかりで、まったく行動しない人に僕は出会ったことがない。僕もそうだけど、僕が出会った人たちは、例えば世界の平和を祈っていれば、その人なりに行動している。善き思い、祈りは、やがて行動につながるのだ。
「善き思いは、やがて善き行為に繋がる」トルストイ