無藤隆

超簡単、保育の記録の取り方と改訂ポイントへの結びつけ方。
 記録を取る。10分とか20分とか30分とかのエピソード。
 事実(子どもと保育者の言動)と解釈(意図や意味)と分けて記録する。(事実と解釈は相対的に決まることなので、厳密さは不要。)
 そこで考えたことをその都度ごとにメモを書き入れる。(この発言はこういう意味があり、こういう学びの可能性があるのではないか、等。)
 以上から考察をする。次の項目。
1)経緯。これまでの活動の流れ。どういう経緯でそのエピソードに至ったか。
2)環境。どういうもの・人が配置され、やりとりや影響関係があったのか。
3)働きかけ。保育者はどう応答し、働きかけたのか。
4)その他。考えたこと何でも。
5)10の姿(とその項目、数十)のいくつかに結びつける。必ず重点的な数個程度にして、複数と関連づける。
6)資質・能力の3つの柱について、各々、1行で、上のエピソードでの子どもの学びの中心を挙げる。
 全体でA4数ページ程度に納める。

とても有り難いです。

教育課程部会 教育課程企画特別部会(第20回) 配付資料:文部科学省

理論やコツ

無意識でも意味があるけれど、意識するともっと効果的にになるのが教育理論だと思う。

子どもたちがよく読めるようになるには、読み手としての成長のためには、読むことが苦手な子にも得意な子にも十分な図書が必要である。

例えばなんとなく子どもたちが手に取れるところに、身近な教室環境に本があったほうがいいと考えられているから学級図書ってどこの学校にもある。学校によって地域の図書館から団体貸し出しなどを各学級にしているところがあります。僕が経験したところだと保護者の方たちでボランティアでやってくださっていた学校があった。もう学級の保護者の役員に図書というのがあったのでした。


これを例えば今あることに加えて意識的にもっと十分にやるとか。


これは例に過ぎないのですが、こういう理論などの意識的な徹底で改善できることってけっこうありそう。



カリキュラムマネジメントの教科横断というところも、具体的なところまで考えないで、ふーん、そうだねーという感じで終っていることも多いのではないかな。それを意識的に具体的な形にしているのが、例えば、みゆき会の「学びのカリキュラムマネジメント」。なかなかここまで考え実践することは難しい。


僕が思うのは理屈が分かっていても(本当は分かっていないのかもしれない、言葉だけで理解していないのかもしれない)、丁寧に現実化できていないことがたくさんあるだろうということ。

教員免許講習

今年の夏は、免許講習を無事に受けられてよかったです。


ただ免許講習はいらないと思っています。



ふだん、校内研修や校内研究だけではなくて、仕事に追われているような感じなのに、夏休みにもトップダウンで講習なの?と人情として思います。校内研究の話し合いにしても、計画にしても勤務時間外になることもよくあります。


こんな状況で、申し込みも面倒で、夏休みの5日間も時間を奪われ、お金も払うわけです。とても厳しい目で講習の内容を見てしまいます。それに見合ったものを期待するのが当然でしょう。

これで自分の成長にも繋がり、子どもたちにも還元できるような講習なら認めてもいいのかなと少しなら思えるかもしれません。


しかし、特に教育最新事情の講義の薄っぺらい内容には驚きました。あんなに網羅的な浅い知識なんて講義されてもほとんど無意味だと思います。アクティブ・ラーニングの理解についても、免許講習に限らす、すべての職員が共通に理解する必要があることですから、校内研修などで、要点をカバーすべきです。


心理学の知識にしても、授業作りなどに役に立つ、土台となる最新の基礎研究について知れるのかと思ったら、特別支援教育のどこかで何度も聞かされたような話です。がっかりしました。



教育の最新事情は網羅的な授業がよくないという体験学習でした。でももうこういう体験はうんざりです。子どものときから、たくさん体験してきたので、もう二度と経験したくないです。

読書感想文

読書感想文についてもいろいろな視点から考えることができる。


子どもたちの視点と言っても、いろいろな切り口がある。


子どもといっても、一人一人違う。
僕が子どもたちを観察すると、読書感想文を楽しんでいる子も少ないけれどいる。あまり好きではない子もいると思う。どうでもいいと思っているような子もいると思う。


大人の人たちの中にも、僕は読書感想文がイヤでしたけれど、読書感想文を書くことも読むことも楽しんでいた人もいます。


イヤだ、嫌いというのは程度の問題でもある。死ぬ程、読書感想文が嫌いという人もいる。どちらかという嫌いという人もいる。嫌いだったとしても、ぼくみたいに別に嫌いでなくなる人もいると思う。


子どもたちの経験という視点から考えることもできる。
デューイが言うには経験には二つの側面があるという。
「何よりも重要なことは、もたれる経験の「質」にかかっているのである。」
①快適と不快の側面
②経験がその後の経験にどのような影響を及ぼすかという側面


読書感想文もこの二つの視点から考えることができる。



作文という視点から考えることもできる。
読書感想文は作文の一種だ。


ベーコンが「書くことは確かにする」というように、読書感想文にも、読んだことを確かにしたり深めたりする効果がある。


経験の二つの側面から考えると②に対応する。



読書感想文は本を読んで書く作文の一種。

本で読んで書くという点では、ブックレビューや読書ノートと変わらない。
ブックレビューは書評なので、説明的なところが読書感想文よりも強いかもしれない。
読書感想文は読み手の思いや考えを書くことが主の作文です。


違いがあるものの、読んだものについて書くということではやはり同じです。


読んで書くことはどれも、
読みを深くすることに繋がる。読んで書いたことは人と本を繋げてくれることがある。
それはブックレビューも読書感想文も同じです。



読書感想文は一つの作文のジャンルといってもいいかもしれない。


読書感想文は、作文の中でも難しいほうだと思う。読めないと書けないですし、ハードルが高い。


読書感想文は本との対話だと思う。
読んだ本について考えること。



読書感想文に限らないけれど、結局、どんなことでも強制できるものではないとは思う。
宿題だろうが、なんだろう、本当にイヤならやらなくていいと思う。本人が決めること。
絶対書きたくないという人に書かせることなんてできないですし、無理やり書かせることが賢明だとは思えないです。有害。





その一方、読書感想文コンクールの記録が本になっているけれど、あれは読書教育の財産の一つだと思う。読書感想文の宿題についてキレるくらいイヤな人がいると思うし(イヤなものはイヤでいいと思う。でも何かのきっかけでイヤでなくなるかもしれない。ずーっといやかもしれない。読書感想文に限らず)、読書感想文が読書嫌いを作ることもあっただろうけれど、読書感想文には、正の側面、価値的な部分もあるとうこと。


いやいやでなければ、読書感想文を書くことが読みや思考を深めてくれることは間違いないと思う。


出された課題をやるべきという考えや側面もあると思う。大人になっても宿題的な課題ってあります。世界には学習を仕事だと捉える人たちもいる。


読書感想文じゃなきゃいけないってことはない。
読書ノートでもブックレビューも書くという点で変わらないし、それでもいいと思う。


何であれ、
読んで書くことが必要なんだと思う。



子どもたちのひとりに一つパソコンがあるなら、パソコンでもいいと思う。小学生は手書きをやるべきという考えもあるだろうけれど。
パソコンがなければ、手書きでやるしかない。読んで何かしら書くこと(考えること)は必要だと思う。必要だと教育当事者が考えても子どもたちは拒否するかもしれない。


僕は読書感想文のリスクも認識するけれど、その価値を認めます。
読書感想文がすごく嫌いという人もいる。当たり前だけどどう考えようが、どう思おうが自由です。でも冷静に考えれば、読書感想文の価値をメリットを知ることができるんじゃないかな(そんなもん認めない!という人もいると思う。大人は読書感想文という形式で進んで本について書かないという批判もあると思う。一番盛んなのはレビュー、たぶん。)。簡単に切り捨てるにはもったいない積み重ねが読書感想文(とその歴史)にはあると僕は思います。


読書感想文って読んでみると、
ちょっと胡散臭いパフォーマンスに感じるものもあるけど、
真摯に本と向き合って思索しているのが伝わってくるような作品もある。



読書感想文もスポーツにサッカーやバスケットボール、走り幅跳びなど、いろいろな種目があることに似ているような気がする。作文の中に、あと本を読んで書けるジャンルの一つとして読書感想文があると考えられる。


「教育者の基本的責任は、年少者たちが周囲の条件によって、彼らの現実の経験が形成されるという一般的な原理を知るだけでなく、さらにどのような環境が成長に導くような経験をするうえで役立つかについて、具体的に認識することである。何よりも先ず、教育者は、価値ある経験の形成に寄与するにちがいないすべてものが引き出せるようにと存在している環境−自然的な、社会的な−をどのように利用すべきであるか、そのことを知らなければならない」デューイ『経験と教育』57項


このデューイの言葉から考えても、教育に利用できる環境の一部としても読書感想文を考えることができる。どんな読書感想文を読んでも下らないと考えたり、悪い評価する人もいるかもしれない。でもそこに豊かな思考があると評価できたら、子どもたちのために読書感想文を利用できるかもしれない。


僕は読書感想文自体に今は嫌いでないだけで、それほど特別な気持ちはないです。でもいい感想文もあるなと思うので、子どもたちを成長に導くような学習材料として使うことを検討しているし、ここ数年間は試しに使っているところです。手応えはあります。絶対感想文である必要はないと考えています。


アトウェルの学校では教えてもらえるのは、レターエッセイ、確かブックレビューも。

経済を原理とせよ

同じ効果なら、少ない時間で楽しく(快く)達成できる理論や方法が基本的にいいと思います(試行錯誤も避けられないし、熟達には、時間がかかるという認識の上で)。


僕の考えが絶対だとは思わないけれど、
教育学の理論や教育方法に対して、今の実践研究って、経済(効率)の視点を軽視しているように感じます(仕事術では聞くのに)。経済の観点の話ってほとんど聞かない。


効率(経済、生産性)って人に向けたらいけない言葉だと僕も思います。
でも方法や理論にはいつもではないかもしれないけれど向けるべきではないでしょうか。


ペスタロッチやヘルバルトの教育学理論の多くは経済を原理とするもので。
それは強烈な影響を世界中の教育に与えています。


意識しようがしまいが僕たちはその理論の大きな影響の中にいます。
そのおかげで、昔よりも少ない時間で教育目標を達成できるようになっているはずです。
仮にペスタロッチたちの教育学理論の反対にやれば、教育目標からどんどん遠ざかるばかりでしょう。
昔よりも多くの時間を使わないと同じ教育の目標レベルまで達することができない。


教育方法や理論を評価する大事な観点を欠いている、または軽視していることが多いように見えるのが、残念なことだなあと思います。経済の視点を欠くのはよくないと僕は思う。


カントの認識論もそう。ペスタロッチの直観教育はカントの認識論から導き出されたものだそうです(牧口常三郎の「経験から出発せよ」もカントの認識論から出てきたもの。「経済を原理とせよ」はマッハの思考経済から)。
中世のヨーロッパの教育は論理学が主で直観(直接観察すること)に欠くことが多かった。その反動で登場したのが実証主義です。直観を欠く学習というのは砂上の楼閣みたいなものです。労多く益少なしです。ショーペンハウワーは直観をともなう学習を自然的な教育と呼び、そうではない教育を「順序転倒」である、ゆがんだ頭脳を作るものであるととても非難しています。


例えば、直観教育の流れ、理論から考えても体験学習はとても有効ですし、僕は正しいと思います。ここは、子どもも大人もそんな変わらないと思う。僕が体験学習を支持する大きな理由の一つです。楽しいってのも、もちろんあります。価値を目標とせよです。


それに対する直観を欠いた網羅的授業の非効率と無意味さ。言葉が酷くて、すみません。でも本当にそう思います。とてもイヤでしたし、不快だった。それで時間をかけて効果もほとんどないってね。悲劇でなくてなんでしょう。