読書 牧口常三郎箴言集

牧口常三郎箴言集

牧口常三郎箴言集

昨日、買うつもりはなかったけど購入してしまいました。
立ち読みですませようと、最初に本を開いて飛び込んできたのが以下の文章です。第6章まであり、第4章の教育技術というところ。これで買ってしまいました。道理を意識することが大事だと思う。教育にしても人生も意識してやらないとなんとなくの教育や人生になってしまいます。

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教育技術には大きく分類すると次の四段階になる。
一、目的意識をもつ自然の活動。すなわち目的は明らかであるが、無策無計画の活動。
二、目的意識とともに、方法の意識をもつ活動。すなわち合理的・計画的活動。
三、教師が合理的活動の上に、被教育者をも有目的の活動に導く活動。
四、被教育者をして明目的、計画的に活動せしめる合理的活動に導く教師の合理的活動。
優れた授業とは労少なくして効果を多くあげる授業である。この四段階の分類は、授業の巧拙を判断する尺度となる。雄弁で、自動に考える余裕を与えずにまくしたて、場当たりの芸を演じて、参観者をアッといわせようと腐心しているような教師は、一見すぐれているように見えるが、第一段階の下に属するといわなければならない。
反対に、自らあまり語らないが、肝心の要点だけはきちんと理解させる。児童の活動と教師の活動をはっきり見分けて、自分が踊るよりは、児童を躍らせることに巧妙な教師は高く評価されなければならないであろう。
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教育技術の四段階目のところと、最後まで読んで最初に想起したのが甲斐崎博史先生や岩瀬直樹先生の教育実践でした。そのあとに明治から昭和初期までの言葉なのですが、牧口先生はそんな昔からファシリテーターだったんだと驚きました。そのあとに想起したのが、ペスタロッチです。彼の経験から導かれた理論を読むと同じことを志向していることがわかります。


「教育は教師と父兄が考えるものであり、教育にかかわりのない者が権力にものをいわせ教育に口だしすべきではない。」
ほんとに、そう思います。実際の教育で何をするかは、直接子どもにかかわっている人たちが、その関係性から、はじめて決定できるのだと思います。直接関わっていない人たちが、現場の先生に細かく口だしして拘束すべきではないです。


「教師と生徒との交際間に於けるよりは、むしろ生徒相互間に於ける影響にありて教育の理想を満足せしむる。」103項
「PA」や「学び合い」を想起します。


「上から詰め込み式に教えたり、丸暗記させたりするではなく、学科に興味をもたせ、勉強する意欲を児童自身に起こさせることに力点を置くべきである。」
「作家の時間」ライティングワークショップなどを想起します。書くこと、考えること好きなる教育。


「教育は教授主義ではなく、指導主義でなければならない。体操の不得手な教師が、下手な模範を示すより、上手な生徒にまねをさせた方がよい。」
なんでも自分がモデルを示す必要はないと思いました。考えれば、今はたくさんモデル(模範)を示す方法があります。知恵をだそう。


「教師は、自分のように偉くなれという傲慢な態度で、生徒に指導するのであってはならない。自分のような人物に満足してはならぬ。さらに偉大なる人物を目標として進まねばならぬ、といった教え方が大事であろう。
そのためには、自分と一緒に進もう、という謙虚な態度をもつことこそ正しい教師のあり方である。」


「教育は知識の伝授が目的ではなく、学習法を指導をすることだ。研究を会得せしむることだ。知識の切り売りや注入ではない。自分の力で智識することのできる方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ。労せずして他人の見いだしたる心的財産を横取りさせることでなく、発見発明の過程を踏ませることだ。こんなことはコメニウス以来ペスタロッチ以来、誰でもが、口を極めてわれわれ教育者に鼓吹したことだが、真の意味の実物教授さえも行われていない。昔ながらの形式的非難が相変わらずたえないのは、けだし教師その人の研究が不十分だからだ。」118項


「なお今少しく具体的にいえば、教育は環境に対して価値を見いださせることだ。しかしてこのよって生ずる物理的・心理的原理を探求せしむることだ。そして自己の生活を、これに適応せしむるによって新価値を発見せしむることだ。すなわち観察と理解と応用との方法を会得することを指導することだ。
こうして知識の宝庫を開く鍵さえあれば、万巻の書籍を暗誦しなくても、生活上に必要なる知識はおのずから得られるものだ。今日のように書籍や印刷物の盛んなる時代にあって、必要なる知識は、理解力さえあれば、容易に探し出される。」
今はインターネットもある。


「あなたは今まで風邪にかかったがありませんか。そのとき医者にかかりませんでしたか。
それでは、あなたは医学上においては、普遍妥当性をもつ真理の存在を承認しているではありませんか。そうすると教育学上において承認できないという理由は成り立たないでしょう。」


「児童の学習ぶりを、学習生活を、もっと適切にいうならば、児童自らがなすことによってのみ、学ぶことのできる学習方法の指導を側面からなすことが教師や父母の教育の本旨であって、決してそれ以上に児童活動の部面を侵害して、それらの代理をつとめてはならない。」106項


「今日のような思想の混乱は、評価と認識を混淆し、正邪の見分けがつかないところからきている。」109項

「認識と評価は違う。枯れススキを幽霊と見てこわがるのは、誤認識から生じたものである。自分の感情や想像で、人や物事を判断してはならない。人からの伝え聞きや、評判をもとにして評価することは危険である。たとえ妻や、ごく親しい人の言葉でも、無認識で評価してはいけない」109項


「被教育者の個性は絶対に尊重しなければならぬと主張すると同時に、人格的感化をなすにあらざれば教育は成り立たぬという論者がある。これは明瞭なる思想上の矛盾であるが、多くの人の気付かぬところである。
個性の絶大なる尊重は、感化というがごとき周囲の勢力の極端なる縮小を意味する。いわんや環境中の一小要素に過ぎぬ教師自身の人格の影響をや。善も悪も、損も得も、すべてを自分の主観によって判断し、善いものは極大に見積もり、悪いものは極小に打算し、「あれかし」と「ある」を混淆し、主観的なる希望を客観的実在と見誤る結果、かようなる極端論が唱えられるので、われわれの取捨に注意すべきところである。
右の反対の教師の人格的感化を教育の最大勢力と見るならば、これは事実においてあり得ない妄想であることは、実際の教育において見易いところであると思う。」122項


「これからの教師は郷土という区域に包括されている自然的環境、社会的環境の意味を了解し、被教育者の生活をそれに接触せしめて自然と社会とに同化させ、もって幸福という名称に包括されるすべての価値を享受することによって実現するところの幸福なる生活を遂行しうるように指導するのが、教育の本当の任務であることが解ったならば、教師はあくまでも、自らの地位を自覚し謙遜して、側面よりの被教育者の補助者、誘導者、産婆役として、被教育者自身がなす活動の(?)助者たることを忘れてはならぬ。」122項 
(?)の部分が漢字に変換できないです。これなんか、コーチングとかファシリテーターですよね。

「自然的はた社会的環境をそのまま教材として感化を受けしめるように被教育者の認識力および評価力を働かせることを本旨とすべきであって、今後の教育において、教師はこの使命を自覚して謙遜し、もってその任務を誤らざるよう、すなわち、善の感化をなさざるを憂うよりは、人の子を賊うことを恐れるのを忘れぬようにしなければならない。」123項


「意識的に自分自身の教育技術を磨くことである。自己の教育経験の結果を省みて思索し、成功と失敗の原因について研究することである。」124項


「教育は知識の伝授よりは、知識することの指導こそ最も重大なる意義を有する。」53項