読書 かかわり方のまなび方

かかわり方のまなび方

かかわり方のまなび方

ツイッターで岩瀬先生が紹介されていた本。いろいろなファシリテーターとの対話からできている本。筆者の問いが優れていると思いました。だから相手から引き出すものが豊かなんだと思います。学ぶことの多い刺激的な本でした。後半のワークショップの歴史についてのお話も勉強になりました。



http://d.hatena.ne.jp/Teruhisa/20110314/1300111158




「でも誰がなりたくて鬱病になりますか。大変な思いをしてなっているんであって。そういう人を見たとき、私はやっぱり尊敬の念というか、畏敬の念をもってします。」21項

たしかに自分から不幸になる人はいない。そう思える心が凄いと思う。


「何が良いとか、何が面白いとか、何が美しいかといったことはその人自身の問題であって、他人が教えたり与えたるたぐいのものではない。」28項
ここは面白いところだと思う。このような考えはよくあると思うけれど、半分正しくて半分正しくないと思います。


前に考えたこと。
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斎藤先生の「価値は教えられて分かるもの」という見出しの話がおもしろかったです。考えさせられる話。たしかに教えてもらったり、体験してみないことには価値は分からないのかもしれないです。



「人間が勉強して対象を追求して行くならば、よほどのことがない限り、最後の『真理』に到達する。ところが、『価値』の方は、たとえば、道徳的な正義については、教えてもらわないと分からない。経済的な利益についても、探求すればいつかは誰でも金持ちになれるとういものではない。

 芸術についても、やはり我々はバッハやハイドンモーツァルトやベートーベンという大先輩から、これが美なんだよ、と教えられたから、美しい音楽というものがどういものかを分かるのです。

『人間になりますと、人間というのは教えてもらうことによって、人間のあり方を教えてもろうて生きがいを感じる』というのは、こういうことなのでしょう。

 私は、自宅に訪ねてきた女子学生が『先生、トレイを貸してください』と言うと、怒ります。『駅でちゃんと済ませてきなさい。デパートのトイレが一番きれいなんだから』と。こういうことは、人に教えてもらわないと分からないんです。教育は、そういうことが大事なんですね。単に勉強して、探求して、考えに考えた結果、他人の家のトイレは借りるものでない、という結論を出すということはあり得ません。」「牧口常三郎研究の第三段階のために」『創価教育』3号155項

これは湯川秀樹梅棹忠夫の対談『人間にとって科学とはなにか』という本からの話。その本からの引用。

「人間になりますと、人間というのは教えてもらうことによって、人間のあり方を教えてもろうて生きがいを感じる。これ、非常に突き放したいい方やけれども、大多数の人間は教えてもらうことによって目的とか価値をつくるんで、ほっといたら、価値体系なんか何もつくらんじゃないか。価値体系というようなものは。生命の進化の中で、非常に複雑なプロセスをくぐって現れるものなのですね」『人間にとって科学とはなにか』77項



湯川秀樹は言っています。『今から二千数百年前に、大宗教家や偉い思想家がぼつぼつ現れるでしょう。そういう時期がある』釈迦や孔子ソクラテス、それから四百年遅れてキリストが出ますね。こういう時代をヤスパースが『枢軸時代』(Achsenzeit)と言っています。この四人の偉大な思想家、宗教家が誕生したことは、人類にとって本当に幸運だったのです。

 そしてこう述べています。『それ以前もあったかもわからんけれども、それ(=偉大な思想家)がかたまって出てくるときでさえも、実際には非常に少数です。少数の人が広い意味での価値体系というものの重要性を教える。それによってたくさんの人が教えられ、価値体系がどんどん広がる。これはたくさんの人が、それぞれ別個に、独立して、自分の価値体系をつくるのと全然違う現象ですね』。

 たぶん、われわれも『価値』について考えるときに、この湯川の指摘を頭に置いておくとよいでしょう。宗教を例にとれば、宗教学のように、『真理』の一部分としての宗教というのは当然あります。しかし、宗教そのものの『価値』を自分のものにするには、いくら宗教学を勉強してもダメなんです。宗教学を勉強して、やれ信仰がどうしたとかカリスマがどうしたとか勉強しても分からない。

 ではどうするとよいか。宗教の価値を自分で体得し、自分の血肉とするには、やはりそれを教えてくれる教師、あるいは偉大な宗教家が必要である。このことを科学者である湯川秀樹が述べているのです。この観点から、私たちは、改めて『価値』を自分のテーマとして引き受け、考え直す必要があると思います。」「牧口常三郎研究の第三段階のために」『創価教育』3号155項




斎藤正二先生の研究の価値も、伊藤貴雄先生に教えてもらって体験して、分かることができたと思います。独りではたぶん分からなかっただろうと思います。最初は変なおじいちゃんとしか見てなかったです。そういえば、高崎隆治先生の研究の価値も、伊藤貴雄先生に教えてもらって、少し分かるようになったと思います。牧口先生の思想と行動の価値や意味も、価値が分かっている斎藤先生や伊藤先生の論文に教えてもらうことではじめて分かるようになったと思う。

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http://d.hatena.ne.jp/Teruhisa/20100822/1282497914


価値って個人の問題ではあるけれど、個人だけの問題ではないと思います。価値は教えられるかよく分からないけれど、価値が分かっている人を通して伝わっていくことだと思います。だからファシリテーションの価値、読書の価値、教育の価値、宗教の価値、PAの価値、牧口常三郎の思想の価値、カントの思想の価値など、どれも独りだけで分かったことは一つもないと思う。


「しかし、”考え方や価値観”になるとブレーキがかかる。それは外からあたえられるべきではないと感じているようだ。”あり方や存在”に至っては、なにを言わんやである。」30項
ここも筆者と考えが違うところだと思いました。
”考え方や価値観”を外から伝えるために努力する人たちの気持ちはよく分かし、実際に効果があったと思う。つまり”考え方や価値観”が伝わった(しかし、考え方や価値観が歪んで伝わってしまったことがたくさんあった。でもこれは伝える人の問題。)。宗教、芸術、思想などいろいろな考えや価値。”あり方や存在”はその人の生き方そのものから教えられることがたくさんあると思います。仏陀やキリスト、ソクラテスガンジーキング牧師、無数の無名の人たちまで。他に”考え方や価値観””あり方や存在”については、古今東西の文学から学ぶことが多かったと思う。


「facilitationの語源はラテン語のfacereで、『なす・作用する』といった意味合いを持つ。『facilis(たやすい・容易)+ate(する)』」
語源だけだと日蓮の教えるということは車輪かなにか回りやすくすることだという比喩を思い出しました。これにいろいろな意味がくっついてきて今のファシリテーションの意味があるのかな。



「でもそうじゃなくて。欠点だと思っていることも自分の宝物で。受け容れればその欠点も使いこなせるようになる。自分の持ち味を大事にしながら、その場にあいることが出来るようになるんだ。」63項
自分に対しても他人に対して、こう関われるようになると楽になると思う。


大村はまの話。67項。同じ内容の授業はしないという話。はあ凄い。まねできない。


「”depends on"(状況による)」86項
直さんのお話。計画はするけれど状況による。やたらと計画通りやることを求めてくる人がいるけれど、計画の目的は何だろう。計画のためにやっているわけではない。


88項。相手がどんな存在として見えているかで、関わり方が変わる話。とても重要なところだと思う。


114項。「ファシリテーターは何に責任を持てばいいのだろう?プロセス。成果。あるいはそれ以外に何か?」
環境づくり


「あらたな貧富の差としての学力差が話題になることがありますが、結局のところは意欲の差なんですよ。」116項
意欲の差は、文化資本や経済格差からの影響が大きいと思う。だから学校が重要だと思います。


「その意味では、やはり”あり方”がファシリテーターにとって最も重要な態度的技術なのだと思う。」120項
長尾彰さんの「恐れない」というお話を思い出します。


「ロジャースは『共感』『無条件の信頼』『自己一致』の三つが揃っている相手の前では、人はその人自身の力でおのずと成長すると言っています。彼はそこが革命的だった。『治療しよう』なんていう接し方では、人はその尊厳を回復しない」137項
大切なところだと思う。『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを思い出します。『無条件』か…。


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自己一致……自己一致とは、『自分がどのような人間であるのかという自己概念(自己イメージ)』と『自分の現実社会での経験(思考・感情・態度・行動)』が一致していて、矛盾がない状態を意味します。
つまり、自分自身の心理状態への深い洞察や適切な自己分析が出来ていて、自分が自分であることへの違和感や苦痛を抱えていない健全な心理状態の管理が出来ているという事です。


徹底的傾聴……クライアントが話している内容を、途中で遮ったり、自分の意見や価値観を挟んだりせずに、徹底的にしっかりと聴取する態度を重視します。
自分の意見や質問などが必要であると判断する場合にも、最小限度の介入に抑えて、出来るだけクライアントの言葉で心理・感情・状況や関係を自由に語らせるように配慮します。


共感的理解……クライアントの立場にたって、問題となっている人間関係や社会環境においてどのような感情や情動を感じているのかを共感的に理解するように努めます。
クライアントの抱える不安・恐怖・怒り・悲しみといった強烈な感情を、最大限の想像力と感受性を張り巡らせて共感的に理解することで、クライアントの気持ちや思いを正確に体感的に理解していることを伝えることが出来ます。
共感的理解を積極的に行っていく事で、苦悩や問題につながる感情の共有が促進され、僅かなりとも感情的な苦痛を緩和させる効果が期待できます。


無条件の肯定的尊重・無条件の積極的受容……来談者中心療法のアプローチによるカウンセリング場面では、クライアントは自分の話したい話題や気持ちを自由に制限なく話すことが基本的に保障されています。
カウンセリング場面においては、心理カウンセラーは、クライアントのありのままの率直な感情表現を無条件に温かく受け容れ、個人的な価値観に対しても反論や批判を加えずに尊重し、社会に対する基本姿勢が反道徳的なものであってもその気持ちを出来る限り包容的に理解しようと努めます。
世間一般の価値観や倫理的な善悪判断といったものによって、クライアントに条件を付けて評価を下してしまうと、クライアントが内面に鬱積させている激しい感情や情動を共感的に受け容れることが不可能になってしまう恐れがあります。
その為、カウンセリングでは基本的に『クライアントの感情表現・話したい話題・人生に対する価値観・社会システムに対する態度』などについて、常識的な価値観や倫理的な善悪観から批判したり、反駁したりすることはありません。
暴力行為や犯罪行為などの特段の事情がない限り、クライアント個人の人格を無条件に尊重し、話したいと思う内容を無条件に受容していくといった姿勢を基本的な態度としています。
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http://charm.at.webry.info/200503/article_2.html


「たとえば十数名のグループサイズの前にいて参加者から質問が出た時、答える前に、その問いをみんなによく聞こえるように復唱しなさいと教わったことを時々思い出す。ファシリテーターには聞こえていても後ろのほうの人には聞こえていないことがある。復唱することで、みんなで問いを共有しながら進めることが出来るんですよとうい話で、『なるほど』と納得して心掛けていたら、すっかり身に付いてしまった。『その日の”ねらい”を必ず冒頭で明確にする』とか、『確実に共有したいポイントは口頭だけで済ませず、白板に書くなどして文字でも明示する』といった押さえどころもまた別の機会に学んだことがあり、それぞれ自分のファシリテーションの大切な一部分になっている。」139項
「自己一致を損なわずに存在する」139項


「今は、ファシリテーションの基本は『グループサイズ』と『問い』だと表います」146項


「ただ、いずれにしても大事なのは”急がない”ことかな。」150項
急ぎがち、あせりがち。


ファシリテーターは何を意識しているのか。
「その場で生まれてくるもの。起きているもの。つまり彼らは、いのち(生命)の動きに敏感なのだと思う。」162項


211項(自己一致について)