読書 倫理と無限

倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話 (ちくま学芸文庫)

倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話 (ちくま学芸文庫)


分からない部分もあるけれど、初めてレヴィナスの本をなんとか最後まで読めた。
この本はレビューにある通り、レヴィナスの本の中では読みやすい。しっかり振り返っておく。


仕事できなかった。なんだか寒い。この本を振り返って、少しじっくり祈って考えたい。



前に担任した2年生が6年生になって、卒業文集の言葉を求めてきた。時間が過ぎるのがはやい。

はっとする言葉がけっこうありました。

「しかしながら、わたしは純粋な哲学が「社会的な問題」に立ち向かうことなく純粋でありうるとは思いません。」p64

「『存在するとは別の仕方で……』のなかでは、責任とは他人に対するものであると述べられています。つまり他人の責任そのものに対して私は責任があるのです。」p121

「顔は私に要求し、私に命令します。顔の意味とは意味された命令に他なりません。正確に言えば、顔が私に対して何らかの命令を意味するとしても、それは、何らかの記号がその意味内容を意味している、というようなあり方ではありません。その命令は顔の意味を形成する当のものなのです。」p124

「命令」というところにカントの倫理学を思い出します。カントの倫理学の変奏曲のようにも思う。もともとは聖書にあるか。


「『聖書』の偉大なる奇跡は共通の文学的な起源にあるのでは少しもなく、反対に、同一の本質的な内容へとさまざまな文学的潮流が合流している点にある、と私はつねづね考えてきたからです。こうした諸潮流の合流がもたらす奇蹟は唯一人の作者が生み出す奇蹟よりも偉大なものなのです。」p146

「倫理的な人間なら誰でも、どんなときでも、いかなる場所でも、文書であれ口頭であれ、証しをもたらすことができ、『聖書』を構成しうるかもしれないとまで言い切ってしまうのでしょうか。あるいは、異なった伝統に属する人びとのあいだで、または、いかなる宗教的伝統のなかにも自分の居場所を認めない人びとのあいだで、共通の聖書というものありうる、とまで主張されるのでしょうか。」「はい、倫理的な真理とは共通のものです。『聖書』を読むと、、たとえその読み方が多様なものであっても、その多様性を通じて、各人が『聖書』にもたらすものが表現されるのです。」p147


仏教の歴史にも大乗非仏説という問題があるけど、こういうレヴィナスの考え方ってすごく大事だと思う。トルストイも『文読む月日』で同じような考えを書いています。おそらく仏教徒一神教の聖書から、一神教のいろいろな解釈を信じている人でも仏教から同じ倫理的な真理を見出すことができるのだと思う。


「私が言いたいのは、真に人間的な生活は存在と同等な状態で満たされた生活、すなわち平穏な生活にはとどまりえないということ、真に人間的な生活は他者に目覚めている、すなわち、たえず幻想から醒めていなければならないということ、存在は決してーー安心を与えてくれる多くの伝承が述べることとは反対にーー自分自身の存在理由ではないとうこと、よく知られた〈自己保存の努力〔conatus essendi〕〉はいかなる権利、いかなる意味の源泉でもないということなのです。」p158

レヴィナスと愛の現象学』によれば、レヴィナスは、
フッサール現象学の方法を使って倫理学をしているという。
そのフッサール現象学デカルト省察が根本にあるみたい。


レヴィナスの読書遍歴が興味深かったです。またカントやデカルトに戻って読みたいとも思いました。


基本的な考えや考え方はもうプラトン、カント、デカルトにもうほぼ全部あるのかもしれない。それを批判、発展させようとショーペンハウワーもフッサールレヴィナスもたぶんしていた。