「いったい、教育というものは、多くの観点から眺められるのが本当である。また、げんに多くの観点から眺められてきたのである。国家や社会体制の観点から、教会や宗教の観点から、教師や教育当事者の観点から、両親や家庭の観点から、さらには児童・生徒・学生の観点(これが「教育の主人公は誰か」という見究めよりすると、いちばん重要な観点であるはずだが、しばしば不当にも忘却され無視されている)から眺められる。これらの観点の一つひとつは部分的であり、一つひとつが教育の理想に何ほどかを寄与しているのも確かだけれど、しかし反対に、教育の理想を曇らせるに足る幾つかの要素をも付与せずにはいないのである。序いでにもうひとつの別の観点も存在し得ることに注意喚起しておきたいが、それは、社会の圏外に押し遣られた知的放浪者=無用者の系譜からの教育に向けられた眼差も時と場合によっては必要になることも忘れるなという考えもさす。」

「われわれには、子どもの落ち着かなさや怠けごころも含めて、『学ばない自由』もあってよいのである。それもまた、『教育の自由』の一つである。人間には『学ぶ自由』しかない、というふうに、勝手に思い込んで、そのほうだけの自由を追求すると、教育は痩せ細ってしまうほかない。霊長類の子どもがほとんどの時間を”遊び”に費やしていると報告している生物学的観察記録は、結局、遊びをとおして適応や生存といった重要な機能が形成されることを暗示している。学校教育は、霊長類のなかで最も知的な人類の子どもを、すっかり退屈させ、疎外された生物にしてしまう部分も多いに相違ない。おとなが官僚制向きにこしらえあげた現行の学校制度を、唯一完全なものと思わないほうが、本当は、健康な対応の仕方であると知るべきである」


「この『知性』とか『品位に対する感覚』とか『根源的な力』とかいうものが、詰め込み教育で得られる『知識』とは全く別の能力=特性であることは、もはや明白である。人間はけっして決められた鉄路の上を邁進する機関車なのではない。走っていると思うと立ちどまったり、前方へ行くのだと思うと突如として後退りしたり、そうかと思うとレールを外れて飛んでもない方向へ歩きだしたり、じつに横着極まりない生きものである。」そのときどきに、人間の根源的力として、ハンドルやブレーキを操作してくれるのが『知性』である。教育は、この『知性』をこそ大きく伸ばす仕事でなければならない。」『教育哲学入門への再入門』斎藤正二