困難

一人の問題(知りたいこと)→全員、たとえば40学級なら40人全員の切実な問題。
ここにはすごい飛躍があると思う。魔法がある。


40人学級で個に合ったきめ細やかな指導とか、
一人の問題(知りたいこと)から全員、たとえば40学級なら40人全員の切実な問題にとか、かなり困難というか無理難題を要求されていると率直に思うけれど、一生懸命応えようと努力している日本の教師がたくさんいる。そりゃあそうだ。40人学級でも、一人ひとりを見て、その子にあった支援もしようと担任になったら努力すると思う。それでも多いなあって思う。四十人学級でも二十数人の学級でも、数人の学級でも同じことが求められる。



学級の人数の問題は一人の末端の教員にはどうにもならないけれど、授業の方は、考え方や方法もふくめて、どうにかできる問題。学習指導要領は授業のデザインに関して配慮することを規定しているけれど、それは方法をただ一つに定めるものではない。スタンダードとなる共通の目標と指導計画の作成と取扱い(授業や単元を計画する時に配慮すること)の大きく二つの部分からできているのが各教科の学習指導要領。こういうスタンダードがあるのは一から全部考えろというよりもすごくいい。このスタンダードの中で、よりベターな方法を考えていくということ。その中には自由がある。全部同じするだったら自由はない。それって正直息苦しい。この国の教育がそうなってなくてよかった。もっと自由がない教育は世界史的にたくさんあったと思う。軍国主義教育、共産主義の思想教育には今の日本の教育よりもきっと自由がなかっただろう。自由があるということはその分、考える余地があるということだ。


学習指導要領を知るって大事だ。読んでよかった。しっかり資料を集めて仕事に繋げつつ、テストの準備をしていこう。僕はみんなで考えて、それを深めていくことにも価値があると思う。


前年度、たまたま行った社会科の研究授業は全体で練り上げるタイプの授業。単元の教材はオリジナル、資料もその先生が資料集を子どもたちのために作っていた。すごいな、いい授業される先生、誠実な丁寧な先生だと思った。それでもその単元の一つひとつの授業の問題設定が全員の切実な問題になっているかは、疑わしいかもしれない。それでいいんだと思う。別に問題が全員に切実でなくても、一緒にみんなで考えいくことには、一人で学ぶ時にはない、チャンスや価値があると思うからです。ただ無理なことを求められていると違和感を感じてしまうと僕は思ってしまうというそれだけの話。思ってしまうならそれでしょうがない。学習指導要領というスタンダードの中で、自分は自分にできることを考えていこう。



自分が受けた教育で思い出すのは、やはり誠実なのって大事なんだと思った。たとえ、授業が合わなくても、授業がよくなくても、強く叱られても誠実な先生には敬意をもてた。授業が上手い先生、よかった先生の記憶は、あまり小中高でないですが、予備校の先生はよかった先生がけっこう記憶に残っています。授業がよかった先生はみんな誠実に思えた、当時。予備校の先生の数学の授業の板書はとんでもなく美しかった。自分の字などは、悲しいレベル。その先生は技術があって誠実だった。力を伸ばしてくれるって大きい。中には、黒板に板書しながら、ぶつぶつ話しているだけの授業もあった。しかも知識伝達の授業なのに、間違ったことを書いて、そのままなこともあった(間違いに気づいたら「ごめんね」って一言、言えればいいだけだと思うけれど)。それにも関わらず自分の失敗にはへらへらして、生徒には偉そうにしている。そんな先生もいた。いろいろな先生がいた。


子どもたちの成長の一部分を助ける仕事をしている。そのことを、日々のいろいろなことから思います。湯浅さんを思い出す。ための話。一つでも、何かためを増やしていけるようにがんばろう、できるだけ誠実に、できるだけ不誠実にならないようにがんばろう。子どもたちの未来にはいろいろなことがあるだろう。賢明に幸せになってほしい。余計に苦しんでほしくない。困難があっても英知と勇気で乗り越えてほしい。幸せを、価値をたくさん創ってほしい。そのために一つでも多く、できることなど引き出しを増やしてためを作る手助けすること。授業はへたくそだし(こういう卑下はよくないか)、結果は出ないかもしれない。でも努力をしよう。よく考えて工夫をしよう。やれることを誠心誠意やろう。