仏教 

Kさん

創価学会員は、本尊といえば文字曼荼羅だと教わっている。しかし、日蓮研究の世界では、むかしから、なにが本尊なのかという議論に、結論はでていない。
御書を素直に読むと、まず、文字曼荼羅は本尊である。これは間違いない。加えて、釈迦の仏像も、当初は本尊であった。これも、まず間違いない。そのうえで、月水御書の記述から、法華経の経典自体も本尊に位置づけられていたと推定される。さらには、富木殿御返事から、天台大師像が、晩年の身延に安置されていたことも確かなようである。学説的には、このほか、一尊四士も本尊であった、とする説がある。
わたしは、日蓮は、当初は、けっこう、広く本尊を許容されていたように思っている。日蓮は、それを、晩年に、曼荼羅正意に収束させようとした(と、わたしは考えている)。が、果たせず、それを文字曼荼羅に収束させたのは、ほかならぬ日興であった。日蓮の本音はわからない。最晩年、日蓮は、曼荼羅オンリーが本尊、と考えていたかもしれない。しかし、日蓮は、亡くなるまで、釈迦仏像も安置しつづけた。仏像も本尊である、と受け取られかねない態度を、生涯、堅持した。
日興は、日蓮の教えをいろいろ変えているけれど、本尊についても、曼荼羅に限定する、という作業を行っている。
日興は、師匠の教えを、ことばどおりに本気で実践する意思をもっていた。それとともに、師の教えのうち、時代にそぐわないものは変える、という意思ももちあわせていた。両方の意思は、相反するものではなく、共存できるらしい。日蓮も、釈迦の教えを、「そのまま」実践しつつ、変えた。偉大な師弟は、どうやら、こういう生き方を貫いたようである。

僕にとって大事な仏教の歴史学。共通する普遍を捉えたい。


こういうことって仏教だけではないだろう、きっと。
ユダヤ教キリスト教イスラム教の流れの中でも、似たようなことが起きているだろうと推測。