フーコー講義集成11 読み書き パレーシア

「重要なことはーーいずれにせよ主要な目的であったことはーー読書によって省察の機会を与えることなのです。」
p404


つまみ読みした読み書きの古代からある原則についてフーコーが語っているところ。



読み書きについて面白かった。
自分がこれまでしてきたことともけっこう重なっていた。

トルストイの『文読む月日』という大好きな本を思い出しました。

文読む月日〈上〉 (ちくま文庫)

文読む月日〈上〉 (ちくま文庫)

もう一冊ほしい。職場に一冊、
家にも一冊、リュックにも一冊、あと予備に一冊、ほしい。



p421

13巻までのキーワードである「パレーシア」について。


パレーシア(すべてを語ること)はどのような点で追従と対立するのか。


追従と組になっていたものが「怒り」。


怒りとういものが上の者が下の者に対しておこなう権力の濫用であるとするならば、追従のほうが、下の者がこの上の者の権力の過剰さを取り込み、その恩恵や好意を勝ち取ろうする方法であることはおわかりでしょう。

p425



追従は話しかける相手を弱く盲目的にします。

 まず結論ですが、パレーシア(率直な語り、リーベルタース)とは反(アンチ)追従だということです。パレージアにおいて、人は語る人、すなわち他者に語る人であることはたしかです。しかし追従の場合とは違い、その人が他者に語るとき、他者は自律的で独立的で完全かつ十分な自己との関係を構成することができます。パレーシアの最終目的は、追従の場合のように、語りかけられる人を語る人に依存させることではないのです。パレーシアの目的、それは語りかけられる人が、あるときに他者の言説を必要としなくなってしまうような状況にいるようにすることなのです。どのようにして、そしてなぜ他者の言説が必要となくなるのでしょう。それは他者の言説が真であったからにほかなりません。他者が真実の言説を与え、それを伝達するときにはじめて、語りかけられた人はそれを内化し、それを主体化することができ、他者との関係なしですますことができるのです。パレーシアにおいて伝達される真理は、言葉を受け取った他者の自律性を確認し、保証してくれます。追従とパレーシア(率直な語り)の対立について言えることは以上です。

p429


「追従は魂に真の健全な方向に向かうものではないという問題」p429

このあといくつか付け加えがある。
パレーシアって要約、結論するこういうことなんだろうけれど、なぜフーコーは12巻でも13巻でもこのことに研究し講義しているのだろうか。



追従は哲学の師弟関係とも対立するのか。



追従を支えているのは性的欲望ではなく、ある人が他者に対して劣位の立場にあるということなのです。

p430


三国志を思い出した。パレーシアな部下。
なかなか上司に率直に意見するっていうのは、当時命がけだったと思う。



パレーシアともう一つ対立するのは弁論術(レトリック)。

弁論術に対して

パレーシアはまったくことなった目的や目標を持っています。話し手と聞き手の関係がまったく違うのです。もちろんパレーシアでも他者に働きかけることが問題になります。しかしそれは他者を支配するのではなく、むしろ他者を指揮したり、なにかをするように仕向けたりするのです。他者に対する働きかけの根本的な目的は、他者が自分自身に対して、また自分自身との関係において、至上権(=主権)の関係を打ち立てることなのです。この絶対的な支配権こそが、賢い主体、徳のある主体、この世で到達できる最高の幸福に達する主体を特徴付けるものなのです。これこそがパレーシアの目標なのですから、パレーシアを実践する人ーすなわち師ーは、直接的で私的な利害関心を持つことはありません。パレーシアの行使は本質的には寛容によって支配されなければならないのです。他者に対する寛容こそが、パレーシアの道徳的義務の核心にあります。

p436

フーコーによれば
弁論術よりも根本的なもの、パレーシアの真の敵が「追従」だとのこと。


この後にジガンテという人の『パレーシアについて』という論文について


パレーシアって13巻で一年間の講義の主題になっているくらいだから、やはり重要なんだと思う。読み終えるころにフーコーのその研究に対する意図と思いがより理解できていてほしい。

やはり一気に読めるような本ではなくここまで、仕事しなくては。