ほんの一部を切り取って、文脈の説明をしないで、暴言だ何だと、人が非難しているという場面に何度か遭遇する。どのような意味で、言っているのか、説明しているのに、無視して、自分の都合のいいように切り抜き。その切り抜き方と文脈に、無意識の悪意が露わになっていた。



自分の尊敬している人がパレーシアで、酷いことをされてた。


どういう意味があるのだろう。

ラカン精神分析の学会を破門された。スピノザは教会を破門された。


破門の破門もある。



難しい。脱構築するというのは、その思想(の意味の多義性や豊かさ、いや真意)を救い出すことだと思うけど・・・。
それがほとんどの人には理解できず、反感をかうのかもしれない。ただ否定しているように見えるのかもしれない。何だか悲しい。





破門には、無意識が働いている。無意識が垣間見える。
今年度は、ラカンを学ぼうと思う。ブルースフィンクの本は理解できてる、今のところ。
学習のテーマは、無意識。


その言葉の真意や多義性、豊かさを切ったということだろうか。それは、よくないと思う。
何で、そんな人や心が貧しくなることをするのだろう。
僕は変わらず、その人のことを尊敬します。

心地よい真理を突き抜けて、ある真実に到達してしまった。当たり前のことで、前から思ってたことだけど、自分の中に反発があることだった。反発はなかったか、でも言っても、いや違う。その真実に反発はないしなかった。その真実を遠ざけようとする組織に在り方、ベクトルに反発していたのだと思う。それを認めたくない自分もいた。その組織には二つの方向性が、ある。どちらも間違ってない、たぶん。でも一方をおろそかにした時に、ダメになっていくと思う。
その一方が強くなりすぎたときに脱構築すると、もう一方の方向を救い出せる。その作用を認めたほうがいいと思う。


拡散していくのと、限定していくのと、どちらもあるけど・・・。


ほとんどの人が理解するけど、一部の理解できない人がただ否定しているように感じて、自分も否定されているように感じて、有る事無い事、騒いてるのかもしれない。防衛。