読書 超したたか勉強術

「超したたか勉強術」で、「思考の鋳型」という言い方してるけど、こういう認知的な道具を身につけるのが教育で大事だというヴィゴツキーとか、自分が目指す方向に重なるかな。


佐藤優さんは、同じイギリスを論じても、ブレイディみか子さんとかなり違う。

「超したたか勉強術」はイギリスの歴史教科書を通して、思考法について伝えようとしています。

クライブという人を英雄かどうか評価するディスカッションという内容がある。個人的にはどうでもいい問題だと思ってしまう。日本みたいな事実の羅列の教科書も嫌だけど(こんなものを1年間かけてだらだら詰め込まれたらうんざり。自分で通読すればいいと思ってしまう。)、僕はこういう議題で真剣にディスカッションなんてできないと思ってしまう。

じゃあ、どんな歴史の教科書でどんな歴史の授業がいいのだろう。

僕だったら、
通史の教科書と資料集がおまけで、歴史書のブックガイドと歴史学の方法をメインの内容とした歴史教科書にしたい。通史は自分で読んでおけというスタンスで(もう四月の段階で全部読むようにする。この段階で問いを出すことが大切だと思う。それぞれの人のこだわりがあるから。ずっと前から思うけれど、通史ってスタートに過ぎないと思う。何のこだわりもなく満遍なく学ぶだけで何の意味があるのってずっと思っている。わからないところを明らかにして、質問を出す。通史は問いを出す触媒の働きをする)、その上で歴史学の名著を読んで行くという授業にしたい。個別に読むのと、グループでブッククラブしてもいい。何かしら、自分の探求をアウトプットして伝えるようにする。どんな時代のどんなテーマでもいいので自分で問いをもち、一次資料の考察を必ず含めるようにする。教室に歴史書コーナーを作る(学校図書館でもいいけれど)。

受験勉強は勝手にやればいいと思う。受験対策を授業でやる必要ないと思う。そんなこと気にしてたら、授業はろくなことにならないと思う。一つのことを深く学んだら、それを土台に受験勉強すればいい。自分の場合は、振り返ってみると、一つの時代、一人の人について深く学んで、はじめて歴史について、少し理解できたかもしれないという感覚をはじめてつかめました。その少しでも突っ込んで学んだことに、他の時代や人や領域を関連づけて、またやっと少し知識が確かになった気がします。

僕が関わることもないだろう、中高の歴史の授業への妄想。


みかこさんの本にも出てくるけれど、社会の授業で、ロールプレイ的な課題があまり好きではないです(網羅的な詰め込みもいやですが)。こういうのばかりやらされたら、いやだなあ。


一つの授業に一つの目標というのは、一つの可能性にすぎない。一つの授業で一つの目標を達成しなくてもいいと考えられないのかな。そう考えることができると、また違った教育の可能性が開けてくると思うけれど。
一つの授業に、一つの目標という見方に日本の多くの教育は縛られていると思う。

佐藤さんが伝えたい思考法の土台はアナロジーだ。参考になるなー。


超したたか勉強術 (朝日新書)

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