小学校学習指導要領解説社会編

試験勉強と研究授業のために学習指導要領解説の高学年の学習内容ところを除いて全部読みました。

小学校学習指導要領解説社会編
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2009/06/16/1234931_003.pdf

第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法の目的のところ。まず上位の目標を確認。この目的の下位にあるのが、社会科や算数などの目標。


社会生活についての理解を図り,我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を 育て,国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民 的資質の基礎を養う。

これは教科の目標。ここでもやはり上位の目標からおさえる。この目標の下位に各学年の単元目標がある。


社会生活についての理解を図るということは,社会科の発足以来,教科の目標とし て位置付けられてきた。社会生活についての理解とは,人々が相互に様々なかかわり をもちながら生活を営んでいることを理解するとともに,自らが社会生活に適応し, 地域社会や国家の発展に貢献しようとする態度を育てることを目指すものである。

「社会生活についての理解とは,人々が相互に様々なかかわり をもちながら生活を営んでいることを理解する」

社会生活の定義。


「社会生活」とは,社会とのかかわりの中での人々の生活のことであり,地域の地 理的環境や組織的な諸活動の様子などとともに,我が国の国土の地理的環境や産業と 国民生活との関連,我が国の歴史的背景などを含んでいる。

「社会生活の内容」。


ここまでで、「民主的な国家・社会の形成者として必要な公民 的資質の基礎を養う。」と教科の目標があるけれど、これまでの高校くらいまでの社会科教育は、投票率から考えると半分くらい失敗しているのだと思う。その課題意識から出てきたのがアクティブ・ラーニングかもしれない。


「公民的資質」とは,国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者,すな わち市民・国民として行動する上で必要とされる資質を意味している。したがって, 公民的資質は,平和で民主的な国家・社会の形成者としての自覚をもち,自他の人格 を互いに尊重し合うこと,社会的義務や責任を果たそうとすること,社会生活の様々 な場面で多面的に考えたり,公正に判断したりすることなどの態度や能力であると考 えられる。

「公民的資質」の定義のところ。



教科の目標と学習内容など以外に、「指導計画の作成と取扱い」という項目が学習指導要領にあることにはじめて気づきました。


1 指導計画の作成に当たっては,次の事項に配慮するものとする。
(1) 各学校においては,地域の実態を生かし,児童が興味・関心をもって学習 に取り組めるようにするとともに,観察や調査・見学などの体験的な活動や
それに基づく表現活動の一層の充実を図ること。


これは体験や、現場主義的なものを重視するというところ。


(3) 学校図書館公共図書館,コンピュータなどを活用して,資料の収集・活用 ・整理などを行うようにすること。また,第4学年以降においては,教科用図 書「地図」を活用すること。

このような学習活動を実現していく上で,学校図書館公共図書館,コンピュータ などの果たす役割は極めて大きい。その主な理由は,次の三つに整理することができ る。
その一つは,学校図書館公共図書館,コンピュータなどを活用して,児童が学習 問題の解決に必要な情報を検索し収集することができることである。社会科の学習に おいては,実物を観察したり,地域の様々な事象や人々の働きを見学・調査したりす るなど,社会的事象に直接かかわり,触れ合いながら学ぶことが大切である。一方, 県の様子,我が国の産業や歴史などの学習では,観察や調査・見学などの体験的な活 動が困難な場合が多く,学校図書館公共図書館などに備えられた図鑑や読み物,事 典(辞典),参考書などの図書やコンピュータなどから得られる様々な情報が重要な 学習の資料となる。

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その二つは,学校図書館公共図書館,コンピュータなどの活用を通して,情報活 用能力を育てることができることである。児童一人一人が学習問題などを解決するた めに図書館やコンピュータなどを活用する過程で,必要な資料を検索・収集する能力, 分析・選択する能力,検討・吟味する能力,加工・整理する能力などを習得すること ができる。
その三つは,特にコンピュータなどの情報手段の活用を通して,多様な表現方法を 身に付け,調べたことや考えたことを分かりやすく伝える発信能力を育てることがで きることである。例えば,インターネット,電子メールなどの様々な情報手段により, 自ら情報を発信し,国内ばかりでなく,例えば日本人学校など海外の人々ともかかわ りをもつことにより,一人一人の表現力も一層豊かになるものと思われる。
このような学習を実現していくには,学校図書館などの施設の整備を進めていくこ とが大切である。特に学校図書館がもつ読書センターとしての機能に加え,児童の学 習活動を支援する学習・情報センターとしての機能をもつようにしていく必要があ る。


体験やインタビューなどでは限界があるところがあって、この部分を重点化したところを研究授業でやりたいと思いました。歴史を本格的に社会科ではじめて扱うのは小学校三年生の古い道具を調べるところ。道具の変遷から生活がどのように変わってきたのかも調査するというところです。どうやってやるかは、まだまだほとんど考えていなくて、子どもたちがそれぞれの問いを追求しながら、社会科の目標を達成し、他の科目でもやっている本作りをパフォーマンス課題とするような授業、そんなことできないかなって、おぼろげに考えています。ただ指導案をどう書けばいいのかもよくわからない。問題。



これを読む上の問いがあって、「学習問題」の定義がのってないかと探したのですが、ありませんでした。「学習問題」という用語はいくつか出てくるのですが、定義はなかった。お偉い学者さんたちが自分の研究の都合などでそれぞれ定義しているだけだということが分かりました。


「学習問題」は「学習」と「問題」の複合語で、ほぼ辞書的な意味で考えて間違いないように思う。子どもが質問するか、子どもが疑問(知りたいこと)をもつか、教師が発問するかで、学習問題かそうではないか区別することは、たぶん目的から考えてよくないと思います。他の教科と変わらなくて、例えば国語で物語文を叙述にもとづいて理解を深めて行く時に、国語の学習指導要領にあるように自立した読み手を目指すならば、子どもが書いてあることに対して質問をすることが授業のベースになるべきだと思う。しかし子どもたちが出す質問に足りないところがあれば、その状況に応じて、教師が発問することは必要だと考えます。教師の発問が、読みが深まる質問を作ることのモデルとなることで、子どもたちが自分でよい質問を考える上でのモデルとなり、最終的には国語の目標へと近づける手だてになることも状況次第であると考えられる。これは社会科でもおそらく変わらない。社会科でも子どもたちが問い(知りたいこと)をもつことがベースとなるだろう。しかし学習内容(の目標)からも足りないところがあれば、教師から問題を出す必要がある場面が考えられる。どちらの教科を考えても、子どもたちから出た問題であろうと、教師が出した問題であろうと、学習問題だと言えるのではないでしょうか。



前から思うのはこの学習問題というのは、子どもたちにとって、知りたいという切実な問題であるべきだとよく聞きます。もしそうだとしたら、クラスの学習問題というのはとても難しいことだと思う。子どもたちが出した一つの問いが、みんなの切実な問いになることって現実的でしょうか。僕はクラスの学習問題として、全員で深めていくことにも価値があると思いますが、その問いがクラスにいる一人一人の子にとって切実な問いになることはとても難しいことだと思う。そんなことがあるのか、あったとしてもそれが社会科の授業で連続して行なえることなのかという疑問があります。みんなで問いを深めていくことにも価値がある思う。それはそれでいい。でもそれがクラスの子全員の切実な問いになることを求めるってどうなのかなあって思う。ふつうに自然に切実な個別の問いは、一人ひとりバラバラだと僕は思います。だから、すべての子にとって切実な問いであることを求めないで、意図があって、みんなで考えてみよう、深めてみようっていうのは分かります。それに加えて、一人ひとり知りたいこと(切実な問い)を、共通の大きな目標、テーマの中で探究するチャンスが、小学校、中学校、高校の社会科でもっとあってもいいのかなと思います。



本当に正直、僕は学校の社会科で公民的資質というのが真面目に養えた気がしないです。僕がいくらかでも公民的資質というものを養えたとしたら、大学で読まれるような憲法の教科書など法学関係の本、社会科学の基本書、福沢諭吉などの古典など、本を読んだ考えたことのおかげだというのは、自分を振り返った実感です。中学校とか高校の社会科の授業を振り返って、その授業の問題が僕にとって切実だったことを一つも思い出せないです。小学生の時のことを思い出しても残念ながら同じです。もし僕の場合、学校の授業のみで、僕がそういった本を読まない人だったら、投票には一切行っていないかもしれません。僕が投票の意義、民主主義の尊さを学び、その理解を深めたのは歴史など本を読んでじっくり考えたことからです。


僕は今日しらふです。こうやって悪い気持ちをかなり持っていますけれど、正直な気持ちです。しかし、じゃああんた(自分)どうすんの?ってところです。僕も当事者だったので、失礼かもしれないですが、文句を言ってもいいと思う(少なくとも心に思っていい)。しかしあんたは子どもたちに公民的資質ってやつを育てることができるてるんですか?ってそのまま問いが返ってくる。



今の一つの答えの方向性は、クラスの学習問題と、一人ひとりの問題の両方を授業で扱うことです。全部クラスの学習問題にしなくてはいけないっていう考えがあったとしたら、それは目的と状況から考えてベターではないと僕は思います。なぜならおそらくほとんど、クラスのすべての子にとっての切実な問いに、クラスの問いがなることはないからです。理科でも社会科でも子どもたちが出た問いであっても、それを拾い上げてクラスの問題にした時に、それがクラスのすべての子にとって切実な問題になっているなと、子どもたちの学習態度や目などを観察してそう感じられたことをほとんどないです。思い出せないです。聴いてみればはっきりすることですが、聴かなくても見れば分かることだと思います。それでも、全員の切実な問題でなくて、算数でも国語でも社会科でも理科でもクラスの問題として扱うことは状況によって必要であると僕は思います。一つの理由はみんな学ぶべきだという共通の学習内容(目標)、学習指導要領があるから。それに多数の課題であることは全体であつかったほうがより効率的なこともあります。全体で扱うことには状況によって価値があることです。しかし、やはりその全体の問題が全員に切実であるということは、僕は無理なことを求めていると思うし、それを自覚する必要があるんんじゃないかって思う。自覚しなくちゃ、個別にやることの必要性が出てこないから、全部一斉に同じ課題だけやってればいいということになる。でもそうじゃないと思う。




学習指導要領の解説を読んでいたら、いろいろ思いがたくさん出てきて、試験勉強でなくなってきてしまった。でもこの指導要領で書かれていることをおさえて、どんな授業ができるのか、少しずつ考えてみようと思う。自分ことを振り返っても、普通レベルの質の授業もできてないかもしれない。


逆向き設計は役に立つ。ゴール、評価方法(パフォーマンス課題)など逆向きに授業デザインすること。ゴールの設定とパフォーマンス課題やテストなど出口が明確なら、過程の効率が変わってくるだけで、ゴールには向かって行けるはずだから、それほど大きな失敗はないと思う。細かい失敗は無数にあるだろうけれど。だから最初にやることはゴールを明確にする。そして評価方法をはっきりさせること。それでそこまでの過程をどうするのか考える。子どもたちへのアセスメント、そして授業の本質をおさえれば、決定的な失敗はしないですむはず。がんばろう。



クラスのみんなの切実な学習問題って聞くと、
どうしても心の中では、「そんな問題あるのかよー」って思ってしまう。
トップダウンの知識の目標(学習指導要領など)があって、
それが子どもたちにとって切実な問いでなければならないとか、
そんな不自然なことを求める必要ないって思う。
学ばければいけない知識は、
時に教師から問題として、課題としておとせばいいじゃんって思う。
それが自然なこともあると思うけれど。


すごく自信がありそうな社会科の授業で、
子どもたち一人ひとりインタビューしたいです。
その問題について「本当に知りたいの?」って。



みんなで考えよう、深めよう、学び合おうって時にいいことだと思うけれど、
それをいつもみんなの切実な問題しようとか、
すごく非現実的なことを要求されていると思ってしまうことがある。
授業の中で、グループで共有して終わることだってあると思う。それも時にいいと思う。グループだったら、その問いであつれば、そのグループ一人ひとりに切実な問題になることも珍しくないかもしれない。いつもとは限らないけれど時には、全体のクラスの問題がみんなにとって切実になることもあると思う。でも一つの方法だけっていうのは正直、すごく窮屈に感じる。正直、苦しい。


配慮することはあるけれど、
学習指導要領は方法を一つに定めるものではないということ。