出版。
アトウェルの本が翻訳されている中で、
自分が何か書いて伝える意味はあるのだろうか。
多分、今の翻訳本は、ジャンル学習のところが原本よりも薄くなっているから、そこをヴィゴツキーやアナロジーの研究と関連づけて実践を語ることには意味がある思う。


一つの考えには、フォロワーが必要だと思う。そういう意味もあるかな。無意味ではないだろう。