ノンアル250日。

睡眠時間六時間より少なくならないようにしているけれど、ネットフリックス危ないな。このとしになって夜更かしに繋がるものができるとは・・・。

 

 
 

「レッジョエミリアと対話しながらにある」教育プログラムは必要なのかというカルラリナルディの論考は、エビデンスにどう付き合うかのかという問題に役立つと思う。これは、統計的に知識とどう付きあるのかというパタンではなくて、子どもをどう見るかとか、知識観としてコツというか、スタンスと言えるのかな。1988年の論考で、「脱構築」そういう言葉が見られるのに、時代を感じる。プログラムは、絶対的なものではなく、即興的な、状況の応じて柔軟に対応するところを重視しつつも、プログラム(やエビデンス)はいらないと言う立場ではない、バランス論、戦略論。ただこのようにプログラムがありつつも、それを実際に応じて修正つつ進むって、多くのがそうしている普通のことのようにも思える。だけど、エビデンスを振りかざして、それが絶対かのように振る舞ったり、教育の具体的な手立てに一つの正解があるかのように偉そうに振る舞ったりしないためには、こういうことを考えいくの大切なのかもしれない。

読書が学力に結びつかないみたいな調査(エビデンス)をいつか読んだことがあったと思うのだけど、その学力の意味合いによるのだと思う。それがもっと具体的に、考えるベースとなる語彙を増やすことだったら、読書で増やすことができるだろう(そういう正の相関を示すエビデンスがあったと思う)。例えば、都道府県の名前と位置を問うような学力だったら、いくら本を読んだところで、その問題にマッチするもの読まなければ、その学力には繋がらないだろう。都道府県の名前と位置を覚えたないなら(そういうテストで結果をただ出したいなら)、それを直接習ったり、覚えたりした方が効率がいいのは当たり前だと思う。

これは、プロジェクト学習にも言えて、その効果が少ないと
いっても、どのようなテストで学力を測っているかによるわけで、エビデンスを無視しないで気にしつつも、それに従う必要はないし、そのエビデンスの中身を考えたり、プロジェクト学習が与えるであろう影響、意味を考えたりして、判断に活かして行くといいと思う。