この世に気づいたらいたことと、この宇宙そのものに対する驚きを忘れないようにしたいです。

僕は死んでもまたこの世にまた生まれてくると思います。この世界観はインドの昔からあるものです。さらには地球の多くの場所で見られるものです。欧米でもエリゼベスキューラーロスとか。この世界観は格差、階級を固定することに作用していて、それを批判して脱構築したのが釈尊でした。そういう意味では、輪廻転成を信じているけれど、そこの善因善果については部分的にしか信じていないか(それでも部分的に信じているのか。自分自身が続くことが少しでもあるのだろうか)。なぜなら、僕が今少しでも善い生き方ができているとしたら、それは必然でもあり偶然でもあるからです。体験的にわからないことと、この世界を見て感じていて許せないからです。

いや、仮に自分の何かが続くとしても転生の善因善果については僕は全く信じない。全くというか、自分が続くだけか。でもそれを仮に信じたとして、どこに生まれるかで何もかも変わってしまう(いや、何もかも言い過ぎか。それでも悲しいくらいに変わってしまう)。

いや、転生の善因善果については、あってたまるかというのが、釈尊日蓮だったはず(そうとも言えないことも思い出すところがあるけれど。経験的にはどこまでもわからないことですからね)。

釈尊に関してはする論理の人でした。
行い人によって人は決まるという思想の人でした。
行いによってバラモン(高貴な人)にも、悪人、例えば盗人にもなるということ。生まれによって、人種によってなどで人が固定的に悪人になるということではないということです。

日蓮も基本的には同じです。

転生の因果律については、
釈尊は基本的に無記。わからないという立場でした。

日蓮はどうだったか。日蓮は転生の因果律について肯定しつつも、否定するという境界の人だったと言えるかもしれないかな。そうかその問題も限界の境界で考えていた知性と信の人だったのか。

こうことを仮に書くとしても、文献や経験に基づいてもうちょっと細かく書けるといいな。あと平易に。わかりづらいって自分に教えてくれたことも幸運にもあったことを思い出します。

ああああ、する論理の凄まじい鋭さを感じ取った。こういう経験的に決してわからないことに終止符を打つ、論理だ。そのことに対して、釈尊日蓮も伝えようとしていた。それ受け継いで、師も友も命をかけて伝えていた。自分は何をしているのだろう。

それにそれだけじゃないんだなあ。今、縁している人との強いつながりを感じるのだ。それはこの世だけの話ではないと強く強く強く強く強く感じるのだなあ。