ウィトゲンシュタインの本を借りに行った時に居酒屋で飲んでしまった。金曜日。
 
子どもたち中心の算数の学習の中に、ワークショップと自由進度のものがあるけれど、それぞれだいぶ違う感じ(自分のイメージのこと。でも実際には見たことないのか。いや教科書の授業でワークショップは見たことがある。自分の授業の中は、一部、ワークショップになっていて、一部、自由進度でやっているし、練り上げの場面もあったり様々。全部、自由進度とか、全部練り上げですとか、全部ワークショップでやっていない今。それで課題がないわけでもない。)。思い出すのは、というかアトウェルについて学んでいた時にその学校や関連の算数の授業の本を読んでいたイメージしかないんだけども。
物事はトレードオフになっていて、その中で自分はどうしていくのか。
世の中にはただ概念は構成するんだとか(構成主義)、ドリル(練習)はいらないとか、日本の練り上げとかあるけど、そんな単純ではないということだけは言えるかな。
そういえば練り上げという言葉が自分が最近行った公の算数の研究の場でなかったなあ。あれも一時の流行りだったのか。練り上げなんて呼び方をしなくても、そのようなことをしているのは他の教科でも、状況に応じていくらでもあるのだ。何が「日本の練り上げ」だよと思ったところでスイッチが入るのでやめる。
毎回の授業にそれなりの計画があって、即興もある。即興的なデザインもある。
即興的なデザインというのは、計画を授業の真っ只中で修正するということ。そういうことは誰でもやっているか。計画どおりにやることが目的ではないから。
 
 
 
 
キエラン・イーガンの想像力の教育学に「謎・驚きの感覚」というものがある。買わなかったけどゲームデザインの本にもデザインの視点としてあった(なぜ買わなかったかというと、その本から教育に応用できそうなパタンは、どれも教育書で見たことがあるようなものばかりだったから)。プレイヤーは、その体験(授業)のどこで謎・驚きを感じるだろうかと。例えば「認知的コンフリクト(ユーリア・エンゲスローム)」があると謎や驚きが生まれる。
 
毎回の授業に謎や驚きがあるというのは難しいのかもしれない。謎や驚きがない教育体験ばかりだったら、子どもたちの感情は干からびてしまうかもしれない。
 
パタンを少しずつでも記述していくとパタン同士の関連を自然と考えるようになる。
 
 
結局、いろいろな教育書を読んだり実践したり、他の方の授業を見せてもらったりしてきたしたけど、生かし切れてはいない。自分がやったことすら忘れていますしw
 
地に足をつけて少しでもより生かせるようになる道がパタン・ランゲージを自分の中に構成するという道なんだと思う。
 
理論とかモデルとか色々な言葉があって区別すること(例えば「パタン」は「視点」になるが、「視点」がそののまま「パタン」になることはないので、「視点」は「パタン」よりも広い概念だろうとか。そうだな、パタンを構成すれば視点を得られるって、これ自分が前に書いたことだ、考えたことだ)も大切かもしれないですが、具体と抽象を行き来きする中でより良いものを目指していきたい(幾らかでもマシな関わりができるようになりたい)。