ナッジ

ナッジを知っていてナッジされるのと、ナッジを知らないでナッジされるのは違う。ナッジを知っていて選択しようとしていることに対する知識も判断するためにそれなりにある。これから、そういうことが増えてくれば、人の厚生っていうのはお節介なのかもしれないけれど改善されていくかもしれない。
ただ警戒を解いてはいけないのは、ナッジの設計が間違っている場合があることだ。そういう権力が今は政策として働いているわけだけど、学び続ける、批判(吟味)する、考え続ける、思考停止にならない姿勢は大切だと言える。それは、フーコーを学んだものが大切にするべきことなのかもしれない。
 
政策も教育も難しい。それらを吟味するのも難しい(時間に限りがあって何でも吟味することはできない。自分は一つの政策に疑問を持って、たった一つの政策に対して、それなりに自分の結論が出るまで資料を集めて読むことに20時間くらいかかりました)。僕もそうだけど、多くの人は間違ってしまう。
 
まあ、僕はナッジ支持者です。ただナッジの設計が間違っているかもしれないということは忘れないようにしないといけない。ナッジを提唱した人たちもそのことをちゃんと指摘している。ナッジに対して条件をいくつかキャス・サンスティーンたちはつけていて、その限りでいいと思う。
 
 
ナッジは命令と禁止と明確に違うから、逆に命令と禁止が自分の中で焦点が当たるというか、際立つというか、そんな感じのことが起きた。