教育的手立ては、どれもベクトルがある。つまり権力的ではない教育は存在しない。
 
これについて批判することに何の意味があるのかと思ったのですが、まず教育者が自覚的であることには意味があるのかな。
 
自覚的であることによって、こういう力が働いていることに気づける思考力、リテラシーを身につけるために教育は何ができるかという話になる(これも例外なく教育は権力的です。にもかかわらず教育を考えて決断する。)。その人の自由(スピノザ)と幾らか良い社会に繋がっている。
 
また教育が権力的であることを自覚できれば、その目的や目標を批判(吟味)することにはつながっていくかな。