ハッティは本で明言しているけれど、彼が明らかにしたいのは、手立ての相互作用ではなくて、一つの手立ての効果量です。
 
ハッティの研究から言えるのは、どのような教育の手立てでも、マイナスの効果のものはほとんどないということ。つまり、逆に言えば、何をやってもエビデンスがある、それぞれいいと主張することができた。しかし、そういったことに少しずつ終止符を打っていきたいというのが、ハッティのメタメタ分析の研究。
 
それで今でも逆の主張がそれぞれされることがあるけれど、自分としては、トレードオフの関係になっていると捉えている。例えば、創造性、創造力を主に伸ばしたいとなれば、何をすべきか(何をしてはいけないか)変わってくる。つまり伸ばしたい力や効果によって手立てが変わってくるし、それを選択したことによって逆に失うものも出てくる。ここは間違いないと思う。さまざまなバランスの教育があるけれど、それぞれに効果、影響があって、育てられる力や与える感情が違うからだ。これはちゃんと観察することができる。どのようなバランスでもその優れた教育を見ると、子どもたちの育ち方や身についている力がそれぞれ違うものだということを、観察できるからだ。どのバランスによる何の手立ての影響かを子どもたちの成果物や姿から推理することができる。
 
僕はこう捉えているので、ハッティのランキングで低いから単純にやらないという選択にはならない。自分が何を教育に望んでいるのか目的観が大切になってくる。その上で、何を選択し、何を選択しないのか。どのようにパタンを圧縮させて行くのか。
 
おそらくトレードオフの関係にあることを考えると、ちょっとどっちつかずの中途半端なバランスになっているようにも思えるけれど、自分の良さを伸ばしていきたい。
 
創造性を伸ばすなら、これはダメだ。あれはダメだと主張する教育論者がいる。しかし、これは目的や状況によるのだ。ハッティの研究は、あれはダメだ、これはダメだという手立てにも別の意味で確実に高い効果量があるということを平均のリアリティで示している。
 
範例の提示とか、フィードバックとか、どのようなバランス、思想の優れた教育にもある手立て、パタンはある。いろいろ葛藤はあるのですが、まず抑えるべきところを抑えるのが大切だと思います。
 
 
創造性、創造力を伸ばすためにあれをしてはいけない、これをしていけない。それはそれで正しいのだろう。しかし、そのために失われるものがあることに、自覚的であるべき。
 
実践するというのはどのようなバランスであれ、何をし、何をしないか決断することになる。何かを得て、何かを失っている。
 
ハッティを誤解すると欠けそうになるのが、相互作用、パタンの圧縮の視点ではないかな。
 
教育って、トレードオフの関係になっているところもあるけど、ただ単純にあれかこれかではないところで、もっと常識的なところで、自分もそうだけど泥臭く現場で奮闘している人たちがたくさんいる。