周りと比べて比較的、自分は人に対しても求めるものが低い方なんだと思う。学級では、みんな同じようにできるようにかなり求めない方だったので、このベクトルがかなり強くて、摩擦が少しはあったと思う。今もその方向は強いのだけど、周りの方とは前よりも調和できるようになってきたと思う。
メリットとしては、たぶん、同じことを強烈に求めるタイプの先生よりは、どの子も安心感はあるのかもしれない。

僕の学級では前年度、不登校だった、不登校の傾向にあった子も学べていたことが何回かあった。前年度、落ち着いていないと言われていた子が落ち着いてきたと言われたことも複数あった。それは自分の傾向からくるものかもしれない。

デメリットとしては、統一感がないわけではないけど、(僕は同じ学校で働いているし、公立学校教員なので揃えているところはちゃんと揃えているのだ。さらには人間の通性から同じようにした方がいいと考えらることも同じ方針で設計したり判断したりするところもある)、がちっと同じことを強烈に求める教員のクラスよりは統一感はないと思う。

他にもデメリットはあると思う。

僕は、学校が子どもに強制できることは何一つないと考えている。歴史的に学校は強制装置とあったと理解しているし、今もそうだと考えている。しかし、子どもには、学校を拒否する自由が残されている。仮に何かの学校や集団に入ったとしよう。そこにはルールなどがある。しかし、ルールに納得できない、理不尽なルールがあれば、その集団から去ることができる。程度の問題だが、納得できないことが少しであればその集団に残るという判断もあると思う。集団にいればルールのように一斉にしよう、これを目指していこうというのはあると思う。しかし、それは本当の意味で強制ではない。とかいたがそうとも言い切れない。力のない子どもは、その状態によって強い権力に強いられているからだ。選択肢が狭いのだ。こどもたちは、その蓄えのなさから、親や学校の権力に脅かされている部分はあると思う。そのことも考えてしまいます。にもかかわらず、子どもたちには拒否する自由が残されている。それが辛い道でも、その学校にいるよりはましかもしれない。そういう状態の学校があるとしたら悲しいことだと思う。

僕は大学に行く前は学校に対して良いイメージはありませんでした。あまり工夫のない一斉授業や教師に対しても不信感が強かった。高校は、留年、退学寸前まで行ったから。自分の傾向はこういうところからもきていると思う。上記と関連するけど、何も人生に見通しをもてないまま高校を退学する寸前だった自分のことを思い出す。退学していたら、どうなっていたのだろうか。かなり違う人生を歩んでいるような気がしなくて、多分あのままだと死んでいたかもしれない。

物事の認識が進んできたから、なんで高校の国語や日本史、世界史の授業が合わなかったのか前よりも分かるようになった。

一つは自分の学び手としての適応力なさ、酷さだ。良い学び手とは、どのような教育、相手もから学びを最大限に引き出すものだと思う。

もう一つは、網羅的な一斉授業が合わなかった。あの時、リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップ、知識を構成するような世界史や日本史などの授業だったらどうだっただろう。全然違ったと思う。あの時の自分は、本を貪るように読んで、ひどいものだけど、物語も書いていて、書くことにも興味を持つようになっていた。本を読むことではじめて強く社会的事象や自然事象にも少しずつ興味を持つようになっていたのだ。そういう自分にああいう単なる網羅的授業は耐え難いものだった。