昨日、Twitterで、哲学をすると「私」や「世界」について何もわからないことがわかるという哲学者を見かけた。

哲学や科学は、「私」や「世界」についてわからないことがたくさんあることを教えてくれるが、私たちは、直観(直接観察)して考え続けることで、わかること、区別がつくこともある。少なくとも、推論ができるし、その推論のいくつかは妥当で信頼できるものだろう。例えば、火を「私」が触ると熱いと感じだろう(火は、熱いと「私」が感じる原因であるという妥当な推論ができるだろう)。

僕は、その哲学者のような立場があり得ることには、賛成ですが、その考えには間違っていると考えます。

牧口とかカントを読んだ時に、明るい部屋に入ったみたいな感じがすると書いたことがあるのですが、こういう人の書いたものを読むと逆に暗い部屋に入った感じがする

哲学は、新たな問いや謎、わからないことの認知を確かに生むけど、ただ迷わせるだけのものではない。考え続けることで、「私」や「世界」についてわかることや区別がつくこと、妥当な推論ができることがたくさんあるのだ。

その哲学者がどのようなことを本で語っているのか知らないのでそのことについては評価できません。しかし、ある命題については、具体例を考えれば、その真偽は、はっきりすることがあります。その哲学者の哲学をすることによって「私」や「世界」について何もわからないことがわかるという命題については、偽であると言えると思います。

ちょっとずれるけど、答えがでない命題もある。カントが純粋理性的批判で論じたこと。世界は無限であるか世界は有限であるか。そういう命題の答えは出ない。

定常宇宙論とビッグバン宇宙説が対立していて、ビッグバン宇宙説の方が正しいとなったのですが、それはこの宇宙がビッグバンがあった後に膨張し続けているという、この宇宙だけの話ですよね。他の宇宙があるかもしれない。不明な点は多く、実際に答え(本当の決着)はいくら考えても、認知が進んでも出ないと思います。この宇宙に関しては、物理学によると誕生(ビッグバン)と死があるらしい。

一方、答えが出る命題もある。答えはない、考えは人それぞれなんでもいい。そういう話もある。確かに考えは人それぞれだがなんでもいいわけではない。