哲学と宗教

Kさん

以前、哲学は、問いを立てることには長けているけれど、答えを示すことには、宗教のほうが長じている、とツイートした。
哲学は、どれだけすぐれた問いを立てるか、というところに本領をもっている。哲学的な答えは、ある意味、副次的なものであって、そこに哲学性を求めても仕方がない。むしろ、哲学は、宗教なら途中で思考を停止させて「信じる」という選択をしそうなところを、あえて、信じずに、考え抜いて、問いを立てることを放棄しない。この、思考をつづける「ねばりごし」が、哲学者に求められる素養である。
以前のツイートは、哲学より宗教がすぐれている、という話ではない。これらは、「スポーツ」が違うのだ。サッカーとバスケットボールくらい違う。サッカーとバスケで、どちらがすぐれたスポーツか、と競っても、答えはでまい。それと一緒だ。
わたしは、宗教とともに哲学も愛している。サッカーとバスケ、両方が好きである。よく、宗教の「信じる」と、哲学の「思考しぬく」は、矛盾するのでは?といわれるが、矛盾はしない。位相が違うから、主張はぶつからない。サッカーが足を使うスポーツで、バスケが手を使うスポーツだったとしても、両方とも好きだ、という感情はなりたつ。それぞれのスポーツに没入する瞬間、それぞれのルールに適応すればいいだけのこと。宗教と哲学も同じである。


哲学にも宗教にも造詣が深いKさんの文章をメモ。
僕もどちらも好きだな。とちらも愛している。


宗教といえば、
士農工商などの階級制度の差別構造をこの地球のあらゆる地域で助け、戦争を煽ったり、オウム真理教の事件などもあり、負の側面もあるけれど、それだけではない。宗教の正の側面もある。前者の要素と対決して出てきたのがキリスト教や仏教などの世界宗教です。その違いが分からない、区別がつかないから、残念な宗教に騙されてしまうのだと思います。