昨日は東浩紀さんの新作に対して今更で読む気が起きないと呟いたけど、バディウの「愛」という主題は今更ではないのかと自分にツッコんでみた。
哲学というのは、今更というような主題についても、それが何かを考える学問だと言えると思う。
東さんの本の場合は、20年前に認識していた以上のものを、その著者や本から得られる気がしないから読む気が起きないのだと思った。東さんの前の本を読んだ経験の実感も理由にある。
 バディウの場合は、だたの今更ではなくて、彼の哲学から何か新しいものが得られると期待できたら、読みたいと思った。期待通りだった。バディウの本をまた読みたいと思った。
 
 
村上春樹さんについても、彼のエッセイの考えが浅はかだと思ったら、彼の小説も全て浅はかに思うようになってしまって、もう2度と読むことはないと思う。
浅はかなのも嫌だけど、世の中の単純思考が嫌いで、小説家というのは、その対極にあるものだと思っていたけど、そうではなかった。
高校生の頃、好きだった作家さんだけど。
 こうやって、読もうか読むまいかと意識に入ってくる本や作家に対して読まないと一つ一つ区別をつけることも、失うものがありつつも前進だと思う。
書き続けていることに関しては人して尊敬できるけど、村上春樹さんについても期待ができなくなってしまったということだ。
小説は、独特でぼやっとしているところがあるけど、エッセイは、小説以上にその書き手の考えがストレートに伝わってくる。もう読むのは、無理なのだ。
エッセイから考えると、村上春樹の小説を読んでいた時に、かなり面白いけど、何か浅はかな感じ、違和感があったのは、こういうことだったのかと思います。
 
 
古典もそうだ。何度もまた読み直そうと思えるのが古典だと誰かが書いていたのを覚えているけど、古典を読み直そうと思えるのは、様々な期待が考えられるけど、その古典を読み直すことに期待があるからだ。
まだ古典と評価が定まっていない新しい本も、古典のように、また読み返したいと思えるような作品でであることを期待しているのだ。それがないものに、読みたいというモチベーションがなかなか湧かないということなんだと思う。