宗教の不可知な部分の信は、役に立つのか、人をエンパワーメントするのか、賢明にするのかでしかない(個人の感情、信念としては、それだけではない。個人的には、信仰は、ある世界像の命題を真である判断するのだから。つまり、これは社会的な話の次元ということ)。
ある信仰が真であるかは、科学的に、経験的にはわからない。しかし、その信仰がその人をエンパワーメントして安心させてくれるものだったらいいではないか。
しかし、カントの道徳原則にあるように、人を手段としてだけではなく目的として扱えということから外れるものは、有害だと思います。
 不可知な部分の世界像は歴史上、複数存在し、自分が思いつく部分もあるかもしれないが、それは、その人が、不可知な部分が存在しないと考えるのも自由だが、世界はこうなっているだろうと信じらるなら、それでいいのだと思う。
ブッダの輪廻の終わり、涅槃を目指すというのは、個人的には厭世的で、好きではないし、信じたくないです。こういう世界観が出てくるということは、本当に生きることが苦であり大変だったのだと思う。でも、僕は、生きることには苦しいこともあるけど、この世界に絶望もしていないし、こういうブッダの世界観は寂しいものだと思います。しかし、本当に大変な思いをすればブッダのような世界像を信じたくもなるのかもしれないとも思います。気づいたら、物心がついて、この宇宙に生まれてきて、死んでもまたどこかに生まれてくる気がするんですよね。不可知で証明するものはないですが。やはり涅槃もあるとは思えなくて、これも証明するものもちろんない。輪廻を終えた涅槃の証拠を提出できた人なんていませんから。
自分は信じたいように信じいるのかもしれない。実際にそうだと思う。輪廻の因果論は、ブッダ以前からあって、それが階級維持や権力者が下位の階級にあるものをコントロールするために使われてて(まさにカントの道徳法則に反する連中)、それに対抗するものとして、ブッダブッダの周辺の思想がありました。スッタニパータにありますが、生まれではなく、行いによって人を判断するという思想です。その考えはいまでも通用する普遍的なものだと思います。日蓮にも共通する思想。
過去世に悪いことしたから、こんな酷い階級に生まれて醜く貧乏で、これからもずっとそうだと主張する偉い人がいたし、今もそういう人がいるだろうけど、過去はどうあれ、今の生き方、行いでその人がどうなのか判断する、人は変われる、救われるというブッダの思想を信じます(このブッダの思想にも異論はあると思う。どのような法律があるのかという社会の問題にもつながってきます。過去のある人の悪い行いを許せない。そんな人が救われるのは嫌だという感情も起きうると思う。僕にはそうしう感情が起きなかったけど、これからも、起きないと思うけど、絶対に起きないとは言えない。)。
不可知な部分で考えすぎるのはやめよう。迷宮。一番上の書いた考えに戻る。自分をエンパワーメントできるように信じること、不可知な部分に超越しつつも、可知の部分、この現実に集中すること。中道。全てを生かしていくという先生に思想に戻ります。