仕事が明日から本格的に始まってくれて、ちょっとほっとする。

ちょっと普段の仕事量と夏休みをうまくブレンドするくらいに仕事量を調整したいけど、難しそう。状況が変われば、また変わってくるかもしれない。

仕事がないと張り合いがないというか、自分、仕事を完全に引退したら精神的にかなりやばそうです。ちょっと対策を考えないといけないとも思うけど、また仕事に追われる日々が始まる。

数学とか算数もそうだけど、生きること、生活、仕事などに結びつかないとやる気が起きない。数学とか算数は、算数と数学を貫く、数学的思考、共通する考え方みたいなのを理解できたら、それで満足してしまうというか、それ以上のモチベーションが続かないというところがある(後は生活の範囲内で、実践の中で学んだり考えたりしていく感じ。生活を超えたところについて少しは考えるけど)。それは他の分野も同じで要点を掴むと、もうそれ以上やる気が起きないことが多いです。仕事だと、無理しなくても仕事のプロセスの中で自然に学べるのがいいし心地がいい。僕自身についてもそうだけど、子どもたちのモチベーションがどこにあるのか考えます。

そういえばリンクで語れている本、とてもよかったです。著者も言っているけど、美味しいチョコレートの詰め合わせパックみたいな感じ。読み手のメインは、高校生や大学1年生なんだろうけど、そうではない人が読んでも面白いと思います。そういった人たちを経済学の魅力を伝える珠玉のエピソードをそれぞれの専門家の先生たちが語っている感じ。勘坂純市先生は、23、4年前に自分が大学生だった頃に語ってくれたことと同じことが書いてあって懐かしく思いました。理論というのは懐中電灯みたいなものだと。全部を照らしてくれる完全な理論は存在しない。一部を明らかにしてくれるのが理論。それは、ないよりはあった方がいいのだ。

この動画で、後輩のために道を切り開くという思いでチャレンジし続ける学生がいるという話が出てくる。僕の時にもそういう学生がいたけど、今もいるのだと思って、また懐かしく思いつつ、いい大学だったなと思います。よくも悪くもモチベーションが高貴というか(自分のためではないのか、自分を殺していないか、自分のためでもないのか、自分のためではダメなのかなどいくつか疑問やツッコミが湧いてくるけど、チャレンジや学ぶことを楽しんでいる感じでいいと思う)、その大学の文化になっていて、それがモチベーションにもなっていて、その人にとってもいいだろうし、後輩はそういう先輩をロールモデルにして、また続いていく。そういう良い伝統みたいなものがある大学だと思います。

吐くまで飲むというか、そういう飲み方をしなくなっただけ成長したのかもしれないけど、逃避的な飲酒もかなりあった夏休みだった。僕は、仕事がある時はかなり自制できてる。仕事が近くにあるということで、ここ数日も自制できているけど、休みが長くある場合に自分が飲んでしまうことは、多い。原因を考えてみると、退屈というか憂鬱からの逃避みたいところがあると思う(飲んでいる時は開き直って楽しむタイプだから楽にはなるんですよね)。僕には、他者みたいなのが気薄なのかもしれない。でも、子どもたちの幾らかでも助けになりたいとは、自然に真心で思えるから、それが救いかもしれない。

 

後輩のため、自分自身のため、両方あると思う。モチベーションは、複数のチャンネルが自分の中にあると強い。

 

大学生のとき、「世界平和と一切衆生の幸福のために」と祈ったり、「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」「英知を磨くは何のため」と心に反芻したりしながら、努力していました。滝山城跡の坂道を毎日、走っていました。

「一切衆生の幸福のために」をストレートに受けたり、仏教以外にもトルストイとかにも影響を受けたりして、大学時代はベジタリアンだったことも思い出す。卒業後の塾講師時代もそうで、その後の給食でまた肉食を再開したのだった。元々、普通に肉を食べる人だったので、割と抵抗なくすぐに元の食生活に戻れました。それぐらい真面目なところがある人だったと思います(ふざけているところもあるので、そんなにくそ真面目では昔も今もないと思います。今でもたまに葛藤がある、そういうベジタリアン時代もあったからか。)。

こういうモチベーションもあった。だいぶ、質的に変わってきてしまったけど、今もある。夏休みも、左右田喜一郎、南原茂、牧口常三郎を学び直して、理念とか理想を自分の中に失ってはいけないと思いました。仕事もすぐには、効果も影響もないけど、自分のいるところで遠くを見据えながら、自分のできるこにチャレンジしていきたいとおもいます。右とか左とか、主義主張とか、人種とか宗教とか国とかを超えた連帯や調和の世界はあり得るし、僕は、人が成長することで、今の世界が幾らかでも良くなっていくだろうと希望をもって生きています。

斎藤幸平さんが左翼は厳しいところがあると言っていて、そうなのかもしれない。あまりに厳しすぎても人はついてこないだろう。そういった厳しさは、理性などを自ら用いてしか続くことはないだろうから、外から強制されるべきものではない。人は、基本、猿やらエゴみたいなものがベースなので、内発的なものと、外からのナッジみたいな工夫もあるけど、知識をつけたり、いろいろ少しずつなのかもしれないし、一方、仏教の即身成仏みたいに、一瞬で自身を変革できるというところも実際にはあると思う。そういう部分がある。

僕は、自分にあまあまでひどいもんだとよく思う。でも、ストイックさみたいなのは、だいぶなくなったけど、それでいいと思う。しっかり、寝た方がいいし休んだ方がいい。認識することによる賢明な判断というのはあると思う。ストイックだから価値があるとは限らない。中間を行くということではなくて、中道が大切。目的や状況、認識に応じて自在なのだ。一方、状況によっても変わらない、自分の信念を貫く人の強さみたいなのはあると思う。

即身成仏もすごく大事だと思う。どこか遠くの積み上げたところに悟りがあるわけではない。何度も転生する必要もない。今、ここに悟りはある。スピノザが言う通りなのだ( スピノザは、これを理解したら決して壊れないような幸福があったとしたらどうだろうかと問題提起した。結論は、自然即神を理解することである。要するにこの宇宙=神であり、その宇宙には無限の属性、可能性が備わっている。私という人間もあなたも、私が使っている MacBook Airも宇宙の一つ一つの現れである。どれも自然(宇宙/神)の現れである。)。

 

カント的な意味でも生老病死という問題について答えるという意味ででも、色々な意味で宗教的な世界の要請はあると思う。どういう世界観を信じるかは、カントの道徳法則の範囲内なら、自由だと思います。それの世界観を信じることがその人の助けになれば、それでいい。

https://www.youtube.com/watch?v=cqRyVCN4-iQ