石川晋 あざみ野講座 ものづくりの国語の授業

今日はあざみ野まで、石川晋さんの講座へ行って帰りの電車の中。
ものづくりベースの国語授業について。
誰が読むのかわからない、読まれないかもしれない。そんな見通しの中、児童書を買い集めたことや、自腹で作家ノートや読書ノートを買ったことを思い出しました。
 晋さんの授業づくりの魂というか、矜持、迫力を感じました。やはり、突き抜けている。せめてその姿勢だけでも少しでも見習いたいです。
教育の仕事って、すげー面白いと思いました。
読むことは、こんなに多彩なのかと思った笑
僕も作ることを軸に授業づくりをしていて、刺激をとても受けました。子どもたちの興味、こだわりを肯定したい、子どもたちを知るところから、課題づくりを晋さんはしていて、僕も今そうしていて、ここは、このままでいいと思えた。しかし、そこから作り出す実践のレベルが違う。突き抜けていると思った。そこは、子どもたちを見る眼や自分の力を磨いていくしかないのだとは思う。あとは覚悟かな。
もう戸塚駅に着いてしまう。
家に到着。
KAIさんの講座も受けてまもなくて、教育の作り手として、作っている教育経験はそれぞれ違うけど、晋さんもKAIさんも突き抜けていると思いました。あと共通するところは、子どもたちであったりとか、状況に応じて、今までの手法を封印したり捨てたりできる、柔軟性というか、なんというか、そういうのがあるところ。つまり、状況があって子どもがどうなのかっていうのがまず先にあって、そこから考えている。それができるのは、手法の奥底に哲学があるのだと思う。
狂気とは違うけど、二人とも徹底的というか、シンプルにとことんやっちゃうというか。そういうところがあると思う。そういうある意味、大人の、教育の作り手の本気みたいなのが子どもたちに伝わるのだと思います。
 
 
ちょうど、ファインマンの最後の授業という、ムロディナウの本を読んでいて、物理学者にプラトン系の学者とアリステレス系の学者のタイプがあるらしい。晋さんは、ファインマンと同じで、どちらかというとアリステレスみたいな現象を真っ直ぐ見て考えていく感じの人だと思った。なんかファインマンと似ているところがあると思う。プラトンみたいにイデア(概念)が先にあるのではなくて。
直接ではないけど、素晴らしい教育に触れられたのは、何よりも大きい。イメージって、大事なのだ。僕の文脈で子どもたちに還元していきます。