読書 児童の世紀

児童の世紀 (冨山房百科文庫 24)

児童の世紀 (冨山房百科文庫 24)

凄く共感できる思想家が増えました。
「『必須科目』なるものは、できるだけ制限するべきである」
心の底から、そう思う。学びたいことを学んだほうがいい。
必要性を感じず、興味がないことを学習するは無理です。


高校生の時にルソーの『エミール』を読んで、
心の底から共感したことを思い出します。


「十分に本を読むこと」の重要性にふれられています。
自力で学んでいくのに、もっとも重要な学び方の一つは「読書」だと思います。
この学び方が身についているかいないかでどれだけ違うか計り知れないと思う。


「本は最高度に個人差のあるもので、子ども自身の選択によって決定すべきである。」231項
これは場合によると思うけど、基本は、子ども自身の選択にすべきだと思います。でも全体で同じ作品を読むことのメリットあると思う。
僕は一斉授業は最低限にしたほうが思っているのですが(一斉指導のメリットはあると思うし時には必要だと思うけど、必要以上に続けるのは経験と観察から本当に無理だと思う。)それと似ているかもしれないです。全体で同じ作品を読むとしたら、厳選に厳選を重ねて最低限にしたほうがいいと思います。今『レミゼラブル』が大好きですが、この物語にはじめて触れたのは高校生のときに行かされた『レミゼラブル』のミュージカルだったと思います。全然興味がなくて、なにも記憶に残らなかったことが残念です。こういう本や物語があるよって共有することは大事なんだと思う。だけどそこから基本的には本人の選択にまかせるのが安全だと思う。やるべきことよりも、やってはいけないこと見つけるほうが簡単だとエレンが書いていましたが、その通りだと思う。もし国語が、全部教科書だけで(子どもの自身の選択はなし)となったら、読むことを好きになることは難しいと思う。


こう考えると選択の補助する役割としての教科書ならいいと思うけど、教科書が国語の授業の基本になるって、もの凄く不自然だと思う。あとこの考えの続きで、やはり本を選択できないので、読書へのアニマシオンはごちそうみたいな授業になるのかなと思います。いつもごちそうというわけにはいかないけど、ある学校では一学期に2つの作戦をやっていました。多いか少ないかわからないけど、多すぎるということは少なくともないだろうと思いました。


基本は自由読書か。
たしかリーディングワークショップも同じ考えだったと薄く記憶しています。


「わたしの夢みる学校では、たとえば、歴史に興味をもつ者は冬の期間をこの科目に関係ある作品を読むことに使い、他の者は数学の勉強に専念すればよい」238項


ぱらぱら最後の方が見たら教科書批判があった。びっくり。
第6章「本と教科書」最後の結論、
「学校の教科書の代りに児童書を使うことで、現代教育の不幸な結果はいくらかは必ず救われるはずである。」僕もそう思います。


子どものためにじゃなくて、子どもをいかすという話がありました。子どものためにと思って、子どもの可能性だったり、精神を殺してしまうこともあると思う。悲しいことです。