多くの宗教は
演繹的。全体と無限からはじめる。不可知な全体の部分である私。



不可知ではないか。
証明できない=不可知ではないか。
そういえばトルストイがそのことを言っていた。
神様を意識すること(また知ること)は容易だって。しかし証明することはできない。
ぼくも証明できないけれど、証明できないことでも、
きっとそうに違いないと信じていることがたくさんある。
その証明できないことで争おうとは思わない。
それがカントが示した哲学や知恵の一部だと思う。


証明できなくても信じることで人がもし善くなるとしてら、
それは価値があることだと考えられる。


トルストイがいっていることは凄く大切なことだと思う。
科学と宗教はきちんと区別して認識して個人の中で健全に両立できる。


「神」や「天国」などを「ないこと」を証明できない。だから科学として「ない」と断定するのも科学的とも理性的ともいえない。「あること」も証明できない。でも心の中で神様のような存在を意識することは確かに容易なのかもしれない。それはたぶん大切なことだと思う。



証明できる部分で、証明することもまた大切。
鎌倉時代でも今でも根拠があって証明できることを、
根拠なしに歪めるということが起きていると思う。それは違うし非理性的。