合理性 効率 コスト

コストの観念がないってことはないけど、
コストの観念に乏しいのはよくないと
お風呂でフーコの講義を読みながらあらためて思った。
コストの観念に乏しいのは重大な病だと思う。



もちろん効率性がすべてではない。
チャップリンの現代文明を批判した映画は、
合理性(効率性)批判の映画だったと思う。
もちろんただ人を手段として、
あの映画みたいに部品みたいに扱うことはよくない。
でもそれは本当に合理的で、効率的なんだろうか。価値的なんだろうか。


これまでの歴史の中に、
真に効率的で合理的だったことがどれだけあったのだろうか。


余暇がなければイノベーションはない。
コストの観念に乏しいのは、自分たちの首を絞めていくだけだと思う。
そのようなループ図を簡単に描くことができる。
もちろんお金や効率だけで豊かな生活や幸せがあるとは思えないけれど、経済が生活や社会の基盤ですから。



コストと言っても、
何をコストと見るかで、いろいろなことが言える。
大事なのは言葉を手放さないで考えて行くことだと僕は思います。
すごく大事なことだと思う。
ある都道府県の知事がコストを減らすためにといって、
大事な文化財と言えるようなものを廃止したとする。
でもそれは長期的にはどのような意味があるのだろう。
文化財には人を育てる効果があって(またコミュケーションの場としても機能しているかもしれない)、長期的に大きくコストやリスクを減らすかもしれない。
短期的に物事を見るだけでは、見落としてしまうことがたくさんある。



こういう短期的な物の見方の政治家を批判して、
合理性や効率性、経済を軽視することは早計であると思います。


言葉を手放さず長期的な視野からも考えることが大切だと思う。