竹田青嗣さんたちは「欲望」が最も根本だというけど、本当にそうだろうか。私は違うと今日の朝、考えた。 レヴィナスは、カントの変形で禁止ではなくて、最後に辿り着いたのが、例えば他者の顔に関わった時に生まれる「殺すな!」というような「命令」だったらしい。私はそれに加えて「禁止」があると思う。 「〜したい(欲望)」と「〜せよ。または〜するな。(命令)」と「〜してはいけない(禁止」はそれぞれ論理的に矛盾するものだ。それらがどこからきているのか。それらは体(と心)から来ている(さらには社会的に形成される無意識の規範などもある)。それらはある時は単独で、ある時には同時に体(と心)に起きてくる。 わたしたちは、他者と関わった時に、他の人を嫌いになって「殺してやりたい」と欲するかもしれない。しかし同時に「殺すな!(命令)」「殺してはいけない!(禁止)」という心の声を聞くかもしれない。 それらは、私の体や心に備わっている共感する力などの機能から来るものだ。時にその機能が麻痺したり、その悲しいけど命令や禁止に反して行動してしまうことが人間にはある。 あと生命の身長という観点から体を考えても、危険なものを避ける、禁止する能力が生き物にはあると考えられる。それは欲望か禁止か命令か、どれが最も根本的なものかという類の問題が適切とは言えないだろう。 全て「〜したい」と変形できるという考えがある。 「〜せよ、〜してはいけないという命令や禁止に従いたい」とか。しかし、逆も言えるだろう。「〜したいと思ったり考えたりしていけない!」とか。例えばキリスト教では心の中でも悪い思いを持ってはいけない!というような思想があるし、そうも考えられるわけだ。 このように欲望が最も根本的は言えず、体に備わったものとして「欲望」「命令」「禁止」があるのだと思う。「命令」に関しては、トルストイが確か言っていたように神的なものが関わっているかもしれないけれど。

 

「欲望」「命令」「禁止」というのは、どれも外にも心の内にも社会的に形成されることもある。
例えば「〜したい」という欲望。これは本人のオリジナルものだと思われがちだけど、その人が選択、欲しているものは社会的に形成されたものであると証明したのがブルデューディスタンクシオンという本だったと記憶しています(社会的に形成されらものもあるということだと受け取ってもいます。そうでないものもあるだろうと。欲望というのが社会というよりも体に由来する方が根本的ではあると思います)。
他のフロイト超自我。自分の中にある無意識の規範が社会的に、後天的に形成されるという話。例えば、日本に住んでいるのと、他の国で生きているのでは心に形成される規範が違ってくるわけです。

 

 

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