抽象的な体系的な知識や理論は、考えるときの視点となり助けとなる。概念化することで、未分化で意識になかったものを、はじめて意識に捉え考えることができるようになる。概念化が、なければ未分化な世界があるだけ。
教育では、悪い意味で「理論と実践の乖離」とかたまに言われるが、そもそも実践と理論は乖離しているもの。一つとして、全く同じ実践は存在しないのだ。そのなかで共通点を概念化したものが知識となるが、そういった概念は、差異を捨象して、具体から乖離して、抽象的だからこそ概念として働く力があるのだ。
教育で言われる理論と実践の乖離とは、理論は、理論として働いているが、その自覚がないということだろうか。もしそうなら、それは理論と実践の乖離ではない。
 理論が実践につながらないという意味で「理論と実践の乖離」という表現と使っているのも不適切。そこで起きているのは、教育の計画や実践を作る段階で理論が視点として働いていないということだから、理論、言語、概念などの無理解、誤解であり、理論と実践の乖離ではない。理論と実践はもともと乖離しているから、悪い意味もいい意味もない。
教育ライターやが学者の人が「理論と実践の乖離」と使っているのを見た記憶がある。いい意味も悪い意味もない、「理論と実践の乖離」を、合わない意味で使い続けると、理論や言語に対する誤解を広めることになるからやめた方がいい。
「理論と実践の乖離」と検索したら、たくさんヒットしたけど、本当にばかばかしくて、有害だと思う。下らない論争。